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安穏法話会(仏法聴聞のススメ)

皆さま、こんにちは。今日はまた激暑になりました。車もあちこちで渋滞になっています。

事故にはどうぞお気をつけください。


さて昨日の安穏法話会は、久しぶりに平日開催になったためお参りがないかなぁと思いお勤めをしてのんびりしていました。

そうしたら玄関から「こんにちは♪」の声が。

お参りがありました。嬉しい。


改めて『正信偈』をお勤めをして法話をさせていただきました。内容は、「無常を生きるとは」についてお取り次ぎいたしました。

その後は、お参りくだされた方から「旧統一教会問題」について仏教のみ教え、浄土真宗のみ教えを通して有意義な時間を過ごすことができました。堅苦しくなく時事問題について人間(こちら)に寄せて語るのではなく、仏(あちら)において味わっていくのが仏法の世界を知ることなのです。


《われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親の呼び声》原口針水和上


有名なお言葉です。

自力(悪人)では決してわかることのない他力(善人)の世界であります。



私が思う前に既に阿弥陀如来の側で仕上げられてあるのです。ここに気づくのはどうすればいいか。

それは聞こえたまま疑わずに受け入れていくのです。

つまり南無阿弥陀仏と聞こえたら、それはご先祖さまが仏さまが私という生き方をよくご理解していてくだされた上で、「あなたをしあわせにしたい。あなたを仏にする仏に私はなったから私の名を称えておくれ。まかせておくれ。」と喚び続けておられるのです。


私は亡き母が聞き分けのない愚かな私のために、実は仏さまが還相(げんそう)のはたらきとなり、我が母という姿となりていつも私に寄り添って「お兄ちゃん、お念仏よ、ナンマンダブツよ、称えてね」と、なかなかお念仏が称えられない私にあの手この手で届けてくださいました。

私はそう受け止めています。

そうでもしなければ浄土真宗のみ教えをはねつけ逃げることしかできない私が阿弥陀如来さまの願いを聞き、おいわれ(お聴聞)を聞くようになり、南無阿弥陀仏と声に称えるようになるなんて、とても有り得ないことではないかと思うのです。


《十億の人に十億の母あるも、我が母にまさる母ありなんや》(暁烏はや師)


今や日本で起きている凶悪事件の約6割は家族間、身内間で起きている現実の中、我が母は私に尊い阿弥陀如来さまをお届けくださいました。

こんな有り難いことがありますか。


これこそ人間に生まれた喜びを知ることじゃないでしょうか。

人間に生まれたからこそ知れた「人間の病」に効く南無阿弥陀仏を知れたことは、苦悩の思い通りにならない人生を豊かに生きていくことのできる素晴らしいものだと確信しています。


お寺に参るとは仏法聴聞するためです。

仏法聴聞するとは、この世界が「諸行無常」であると知ることです。

諸行無常を知ることは他力本願(阿弥陀如来の願いのまま)に生きることが大切であることを知ることなのです。



《生きるということは 誰かに借りを作ること 生きていくということは 誰かに借りを返すこと》(永六輔さん)



私が今させていただいていることは、今までたくさんいただいた喜びをお返ししていることなのです。

確かになかなか結果が伴っていないのがめ知れませんが、私に「真」は無くても、阿弥陀さまに「真」がございます。


だから真実の世界をお伝えしていくことが私が今すべきことだと思っています。


是非一度、超法寺へお参りください。

きっと行かないよりは「ホッと」できるようにはなると思いますよ。

お待ちしてます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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