top of page

南無阿弥陀仏をお名号というか

皆さま、こんばんは。

今日も暑かったですね、また夕立ちもありましたが、モヤっとして涼しくとはなりません。

また米国独立記念日[1774年]で、明日は令和のノストラダムスの大予言の日で災難が起こりますでしょうか。


ま、この世は諸行無常ですから、なるようになります。あってもいいし、なくてもいい。

そんな心持ちでいいと私は思っています。


さて本題です。

なぜ南無阿弥陀仏の六字を「お名号」と言われるのか。それは「阿弥陀如来さまが名のってくださっているから」です。


名号•••••名/左上にタ~夕方(たそがれ)

    /右下に口


(たそがれ)と言うのは、「誰れ彼れ」

「あんた誰よ」

夕方は「あんた誰?」と聞かなければならない時刻を表す。昼間なら「あんた誰?」と聞かなくても顔が見えています。

しかし晩なら、そこにいることすらわかりません。ちょうどその中間が夕方です。

誰かがいるけれども、ちょっと顔がわかりにくい。だから「あんた誰?」と聞くのです。


「あなたは何という名前ですか?」と聞いたら「⚪︎⚪︎です」と口を開くでしょう。

だから名前というのですね。


名前•••••梵語でナーマン[知らせる]


つまり南無阿弥陀仏のことをなぜ名号というのかと言えば、阿弥陀如来さまがここにおるぞ!心配するなよ!と知らせていてくださるのです。


阿弥陀如来さまが「お前の親になったぞ」と自ら名のってくださった、その口の開き具合いを表しているのが「号」という字なのです。

名のるのですから場所があります。

場所がなかったら名のることができません。


名のる場所•••••「この私」


南無阿弥陀仏は、今ここにいる私に直接名のってくださっているのです。


この私に名のってくださる、それが南無阿弥陀仏。→これが浄土真宗、これで十分。

⭕️その名のりをお聞かせいただくということが、浄土真宗で一番大事なるお聴聞ということ。


「直接の接」は接する、ピタっとなること。

ピタっとくっつくから溶接というのです。

だから、いつまでも阿弥陀如来さまの方が先に名のってくださって名をもってしてくださっているのです。


いかがでしたか。

つい私が先になってしまいがちですが、それではいつまでも他力本願のお心は分からずじまいになります。

親のよび声に気づくことから始まるのです。


我称え、我聞くなれど、南無阿弥陀

連れてゆくぞの、親のよび声

            [原口針水和上]


しかし今日は強く雨が降りますね。

止まない雨は無いから大丈夫かな。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

コメント


bottom of page