南無阿弥陀仏の響き
- 超法寺の住職

- 12 分前
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問答
「片手だけで音を出してみよ」
どう答えますか?
さまざまな答えがあるでしょう。
例えば、手を振れば風によって音が鳴る。
誰かの手を借りれば、パチンと手を叩くことで音を出すことができます。一人は片手しか使っていないのに音がでるのです。
実はこれは仏教の大切な教えを示しているのです。国語辞典を引いてみると、「音とは、物の動きや触れ合いで起こり、それが空気などを伝わって耳に聞こえる響き」とあります。
しかし、この問答で出てくる音とは単なる空気の振動だけを言っているのではありません。
人間が活動して、色々な人や物と触れ合って起こり、心に響いてくる音のことなのですね。
それは人間が生きている世界に満ちている「嬉しい、素晴らしい、楽しい、悲しい、悔しい」というようなさまざまな心の音です。
そのさまざまな心の音が、人の動きや触れ合いの中でしか起こらないというところに、この問答を解く鍵が隠されていたのです。
つまり「片手だけで音を出してみよ」という問いかけの中には、「人間一人だけで生きていくことができるのか」という、もう一つの問いかけがあったのです。
最近見かけた標語伝道に、「人は多いが人間は少ない。これはどういうことだろうか」とありました。
あまりに全てが便利になり、他人と直接触れ合わずとも用事を済ませることができるようになりました。だからでしょうか、いつのまにか私たちは、「自分一人で何でもできる」という錯覚をしてしまっているのではないでしょうか。
しかし本当のところ、私の心の音を出すための相手になってくれるのは、数えきれないほどのいのちなのです。私たち人間は一人では生きているわけではなく、全てのいのちはつながり合い、支え合っているということを忘れてはならないという仏教の教えがあるのです。
好きとか嫌いとか、何かを比較して「我」という不確かなもので責めて、裁いているのがお互いの姿ではないのでしょうか。
先程の手を叩く音は、手を叩くことができなかった人の心までも音が響いているというところなのです。知らず知らずのうちに届いているものがあります。
私たちが生きていくとき、数限りないいのちとの出遇いを繰り返しています。その中でさまざまな形で私に関わっています。それを私は自我という殻で気づこうとしなかったり、はねつけようとしたりします。
しかし、そのような私を生かそうとする無数のいのちがあり、その殻を破って本当の姿を照らし出そうとする無数の慈悲の光が私という片手にいつも手を合わせてくださって、心の音を出し続けてくださいます。
この無数のいのち、無数の光をインドの古い言葉で「アミダ」と言います。
アミダという仏さまが私と手を合わせて出してくださる心の音が南無阿弥陀仏の響きなのです。
一人ではないよ、いつも一緒だよ。
そう呼びかけて響いている南無阿弥陀仏という心の音が、私たちの知らない間にいつもはたらきかけ、喚び続けておられるのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




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