六甲庵の思い出(神戸淡路大震災)
- 超法寺の住職

- 5 日前
- 読了時間: 3分
更新日:4 日前
あの神戸淡路大震災の思い出が懐かしい。あの経験は東日本大震災の時に何をすべきかの経験にもなりました。もうすっかり復興されているのでしょうね。
お寺も、あの時いた子供達も大人になって、スタッフとして関わった人たちもそれぞれの場で活躍されているのでしょうね。私は歳だけ取った感じですが。
人生いろいろな経験をさせていただきました。無駄なことは何もないです。
それぞれ意味があるのです。たった一度の人生であります。良いことも悪いことも、嫌なことも過ぎてしまえば思い出であります。
南無阿弥陀仏の阿弥陀さまは常に私に寄り添い、「いつ、どこで、どのような形で人生を終えようとも、この人生は決して空しく終わらせない」とはたらいておられるのであります。
信心とは、私が信じるものと思われがちですが私の信心は全く当てにならないのです。常にゆらゆら動き詰めです。ですから仏さまはこちらの信心は求めていません。
信じよとは、まかせよ救うという他力の願いが私にかけられているのです。これを他力本願というのです。信じよは信じさせる如来さまの願いの上に成り立っているのです。
それなのに、どうしてもこちらで信じたい、信じてると自力に重きを置こうとする、これが煩悩具足の凡夫の悲しさであります。自力など通用する甘い世界ではないというのに。
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫へたまへり
法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり 『浄土和讃』
いつでもどこでも誰にでも如来さまは光(声)となって届いていてくださいます。
あらゆる命に届けられているのです。
命には無限の可能性がありますので、そこに優劣があってはならないのです。それなのに人間というものは常に自分が最高で他者を裁いて生きているのです。
自分は正しい、周りは間違っている。だから事件、事故が絶えないのである。
インスタを見ていてもそんな自分よがりの投稿が実に多い。
私は私という命が私となって生きてくださっているのに常に不足ばかりではないでしょうか。
このところに気持ちが常にあるならば、それぞれが生きる意味を必ず見つかるのではないでしょうか。
「命」は大切だ。何千何万回言われるより
「あなた」がたいせつだ、誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きてゆける 『公共広告機構CM』
南無阿弥陀仏というのは、「あなたが大切だ」という如来さまの叫びそのものであります。
その上で、「生まれてきてよかった」と思える人生のファイナルアンサーにたどり着くのだと思います。
この世でこの幸せに出会える遇えない人が、死んでどうやって幸せになるのでしょうか。
多くの人が災害で命を落とされた現実の中、どれほどの人の悲しみ、苦しみがあったことでしょうね。
でも、その一つひとつに如来さまが寄り添ってくださっています。ただの悲しみ苦しみに終わらせない。大きな意味があったことを教えれくださっているのです。
仏法を聞いてくれよ。お念仏を称えてくれよ。
それでもやっぱり称えられない。仏法を聞く機会が持てない。人間って・・・・を感じずにはいられないし、阿弥陀仏のご苦労も尽きることはないのでしょう。
しかし、私は遇わせていただきました。だからこそ、多くの人にこの喜びをお伝えして行きたい。
私の使命でしょうか。
神戸淡路大震災の記憶がこうした思い出となっています。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


![仏教テレフォン相談[お悩み相談]](https://static.wixstatic.com/media/3d2ed7_53b2c34dcdab43b98057bc9c33b3ec2a~mv2.jpg/v1/fill/w_980,h_736,al_c,q_85,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/3d2ed7_53b2c34dcdab43b98057bc9c33b3ec2a~mv2.jpg)

コメント