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他力の悲願は我にあり

皆さま、こんばんは。

今日はいかがでしたか。

私は慌ただしかった5月の疲れが全開に出てしまったようです。やはり老いには勝たれません。


さて、こんな日はゆっくりお聴聞してリフレッシュします。土日の築地本願寺常例布教ご講師、新潟県の清水正朋さんのお取次は題材は私が得意としているものではありましたが、幅と深さが新たな学びになりました。

皆さまもYouTubeでお聴聞されましたか。

あっという間に引き込まれてしまう熱量は、何を私たちに語りかけていたのでしょうか。


浄土真宗にはたくさんの仏教讃歌がありますが、その中に『真宗宗歌』があります。

阿弥陀さまの他力本願は一体何を意味し、何を語らっているのでしょうか。改めてご一緒にお味わいさせていただきましょう。


皆さまはお口にお耳に南無阿弥陀仏をいただいておられることでしょうか。

その方々に問いますね。

お念仏を声にして嬉しいですか?有り難いですか?早く命を終えてお浄土へ行きたいですか?

心がスッキリしますか?


そのお心一つの答えにより、きちんと親鸞聖人のお味わいに沿っているかがわかります。

有名な『歎異抄』には、念仏しても、ちっとも嬉しくない。称えても称えても苦悩が晴れない。これでは修行道の苦行ではないか。

理屈では頭ではわかっている。命を終えて往生できることは有り難いし嬉しいことだ。

でもやっぱり生きていたい。お浄土へ早く行きたいなど微塵も思えない。


ではそのどうにもならない苦悩について親鸞聖人はどう思われていらっしゃるのだろう。


問い]お念仏を心から喜び急いでお浄土へ行きたがる人をどう思うか。

問い]そんな仏さまのような人に阿弥陀さまの救いが必要だろうか。

私たちのこのような雑念、疑心については、阿弥陀さまはとうの昔からお見通しであったのです。あーなったらこうなったらなんてもうお分かりの上に阿弥陀さまの慈悲は仕上がっていたのです。煩悩具足の凡夫たる私、それにすら気づこうともしない、それも皆ご承知でありました。


これら全ては凡夫と言われる私たちであるのです。

阿弥陀さまが建てられた願いは【凡夫救済】

この阿弥陀さまの他力の悲願は誰でもない凡夫たる私たちのためにあることを決して忘れてはならないのです。

賢者と自惚れているような人にはなかなかこの境地はいただけないものです。


どこどこまでいっても決して見捨てないはたらきが我が身に届けられてあるのです。

それはまるで我が親が我が子たるこの私にそうしてくれたように。(全ての人、親がそうであるとは断言できないが)

私はおかげさまで、人生をかけて見捨てずに気づかせようとご苦労くださった親がいてくるはました。


全ては阿弥陀さまに抱かれてあったこの私と気づいた時、「念仏申さんと思う心のおこらんときに」もうこの私は阿弥陀さまに抱かれてあったと知らされるのです。

お念仏を称えなら(申したら)救われるは他力ではありません。

称える前からそうしてくれの願いがはたらきがあったのでした。

ここに気づくまで生涯をかけてお聞かせいただいてほしいのです。


一回や二回聞いた位で(それでも聞くことはなかなか難しいが)わかるほど私は素直ではない。


聞いて忘れて 忘れて聞いて

わたしゃ籠耳

お慈悲の水に今日も一日

ざぶりと浸かり

ご恩よろこぶ幸せ者よ

『籠耳』


素晴らしいお味わいと思われませんか。

心の底までご法義が染みると、きっとこのようなお味わいになるのではないでしょうか。

阿弥陀さまはすぐに忘れてしまう私を承知の上で誓願を建てられました。

だから忘れてもいいのです。

忘れてくださらない仏さまがいらっしゃるのだから。


いかがでしょうか。

他力本願のお心について一端をご紹介させていただきました。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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