top of page

仏教の教えを求めようとしない人は

更新日:2 日前

皆さま、こんにちは。

おかげさまで久しぶりの太陽とご対面。

有り難いですね。


相田みつをさんは、「美しい花を見た。美しい花は美しい枝についている。美しい枝は美しい幹についている。美しい幹は美しい根っこがささえているにちがいない。その根っこは見えない。その見えないところに大事な点がある。」


と、うたわれています。

なかなか意味深いと思いました。

また、中国の唐の時代、善導大師(613-681)が「人に生まれて精進せざれば、たとえば樹の根なきがごとし。華をとりて日中に置くにいくばくの時かあざやかなるを得るや。」と言われています。


人の世に生をうけて、仏の教えを求めようとしない人は、いわば根のない樹のようなもの。

美しい花は、美しい枝に咲きます。美しい枝は、立派な幹から出ています。立派な幹には、しっかりした根があります。大地にしっかり根をはっているからこそ風雪から身を守れるのですね。そして美しい花も咲くことができるのです。


根がなかったら花を咲かす以前に樹自身も枯れてしまいます。私は花を咲かせるより枯らす方が得意なのですがよくわかります。

根は外からは見えませんからわかりませんが、この根こそが大事なのです。

私たちが生きていくにも、この根が大切なのです。名誉や地位、権力、既得権益にばかり(外見)を大切に思って生きていますと見えない心の世界を疎かにしがちです。


仏法という地面に心がしっかりと根をはってこそ、初めて潤いのある人生が開けてきます。

虚栄や欲望だけに左右されることのない道が開けてきます。


弘法大師も、「物の興廃は必ず人に由る(よる)。人の昇沈(しょうちん)は定めて道に在り(あり)。」と言われました。


世の中が良くなるのも悪くなるのも人間に由因します。昨今の米騒動も日頃から政治に興味を持たず国民の義務たる選挙権の行使を怠り続けたしっぺ返しであります。未だにそれがわからず!マスコミの誤った情報に一喜一憂しているところから来て、根源がわからずにいます。

だからこそ人間をもっと大切に考えなくてはなりません。


人間が立派になるかそうでなくなるかは、その人が仏教を学んでいるかどうかによる、そう言われているのではないでしょうか。


仏の教えを学ぶ人、仏法を真摯にお聴聞している人は、たとえ生活は苦しくても、どんな困難に直面しても、ただいたずらに嘆き悲しむことはないでしょう。悩みの中にこそ阿弥陀如来のお導きに生かされていくでしょう。


南無阿弥陀仏を称えつつ、強く明るく生きぬきます。


逆に仏教に無頓着な人は自分を過信し、他の声に耳を傾けようとはしませんから、ひとたび逆境の淵に立ち尽くすと悲観し絶望して立ち上がることを諦めて、命を絶ったりします。

仏教を聞いて生きるならば絶望になることありません。


何故ならば命あるものは、必ず死を迎えねばならないから。この真理をお聞かせしながら生きていくのが仏教であります。

死を常に抱えながら生きているんだという日々を胸に生きているのです。

いかにして生きていくか、どうすれば人間らしく生きていくことができるかを問うていくべきだと思います。


お釈迦さまは、理想に向かって一瞬一瞬を大切に生きていくことについて、

「過去を追わざれ、未来を願わざれ、過去はすでに捨てられ、未来はいまだ至らず、ただ現在の法をその場その場に観察し、揺ぐことなく動ずるなく、よく承知して修習せよ。今日なすべきことのみを熱心になせ。誰か明日の死を知らん」(水野弘元氏訳)

と言われました。


過去の集約である現在の自分のありかたをよく考えなさい、現在の自分のあるべき生き方に努力することが、やがては良き未来へと繋がるんだといっておられるのです。


ようやくこのモヤモヤが晴れてきたようです。

そういうことで人には絶対などなく、その時々で思いは常にひっくり返るということを肝に銘じていくことこそが、この世を安穏に過ごすことの方策だとお聞かせいただきました。

南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

Comments


bottom of page