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人間らしく生きる、それが信心ということ

Humans being able to live humanly that is what the entrusting to Amida is.


人間が人間らしく生きる、それが信心ということです。


石川県の松本梶丸師の『わが心のよくて殺さぬにはあらず』の中の一節です。

この言葉の前後には、「曽我先生は、『愚』とは自然法爾(じねんほうに)の姿だと仰られますけれども、人間は人間らしく生きる、仏法というのは何も難しいことではなく、人間が人間らしく生きる、それが信心ということです。『愚にかえる』とはそういうことでしょう。

こんな簡単なことですが、人間が人間らしく生きるためには仏さまの智慧をいただく、よきひとの仰せをこうむるということがなければ、決して人間は人間らしく生きられません。

人間が人間らしく生きるということは、本来の愚にかえるということ、煩悩具足の凡夫のままをいただいて生きるということでしょうか。


人間が人間らしく生きるということは、愚にかえることといわれます。

愚にかえるということは、もともと人間は愚かであるというでしょう。


ところが、人間は愚かな存在であるということを言っても、私自身は愚か者であるとは言いません。

たとえ、私は愚か者であると言ったとしても、浄土真宗で言われる「愚か」、あるいは親鸞聖人が「愚禿」(ぐとく)と名告られたこととは意味が違います。

なぜなら、人間が見ている人間と、如来真実の光に照らし出された人間とはまったく違うからです。


例えば、地球から地球を見るのと、宇宙空間から地球を見るのとは違います。

地球が丸いということは常識ですが、これは宇宙から見れば明確なことです。

しかし、私どもが立っているところからどのように見ても、地球は丸いという実感はありません。

※実際には地球はまんまるではないそうです。それから千葉県銚子市の「地球の丸く見える丘展望台」へ行くと、見事に丸いということを実感、実見できます。

ぜひ一度行ってみてください。(大人¥420、子ども(小中学生¥200、65歳以上¥360)



地球から、どのように工夫しても地球全体は見えないのです。


人間は愚かである。いや私は愚か者というのは、人間が人間を追求してえたものではないのです。人間が人間を見て愚かというのは、氷山の一角であって、人間存在そのものを愚かとは言わないのであります。

ましてや、自分は学歴がある。エリートである、キャリアがあると自負している人は、まったく自分が見えていないと言わざるを得ません。

人間は愚かである。私自身愚か者であるというのは、学歴があろうと、ノーベル賞をもらうほどの知識があろうとも、人間存在そのものが愚かであるということであります。

それは真実の光に照らされて初めて見えてくる実相であります。


中国の善導大師が、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あつことなしと信ず」と言われていますのも、法のはたらきによって知らされた自身の救われ難き姿であります。

古来より「機の深信」(きのじんしん)と言われるもので、如来より賜りたる信心によって審らか(つまびらか)になった私のありようであります。


また法の深信は、このような私のために誓願がたてられ、さらに南無阿弥陀仏という言葉となり、み名となって私に来てくださっている。

つまり名号のはたらきをそのまま領受した相を信心と言います。

つまり機の深信も、法の深信も、一つの信心の両面をいうのであります。


人間が人間らしくとは、背伸びしないで、あるがままの本来の私、愚にかえることであります。それは信心のはたらきであります。

ですから世間で言う愚か者とは違うのです。


善導大師が言われるように、現にただ今、自身は罪悪深重の凡夫であります。

罪悪というのは、犯罪ということではなくて、貧欲(とんよく)や怒り、腹立ち、妬み、恨むという煩悩を罪悪と言います。

その根っこには我愛・我執があります。

貧欲と言われるように貪りの欲、つまり「満足せず限りなく欲を満たそうとする」、そしてその結果、自身も苦悩し、他人をも煩わせ悩ませる。

満たされなかったら、怒り、腹立ち、妬む、こういうことを、この世に生まれたときからではなく、ずっとずっと・・・・気の遠くなる昔から繰り返してきました。

どのように努力しても、どのように心を磨いても煩悩の垢が落ちない、と阿弥陀如来はお見抜きされています。

このように「迷妄」という世界から、これから一歩も出離できないといわれ、だからこそ如来は、そのまま抱きとって救うと言われたのでありました。

人間、人間と言っていますが、法の前ではみな凡夫であります。

「愚かな凡夫」であります。


私というものは、いくらお念仏を称えようが、仏法聴聞しようとも、いつ何をするかわからない。人間の悲しさは、悪い人だけが悪いことをするのではない。

普段は優しくて真面目で本当に良い人なのに、魔が刺して突如何をしでかすかわからないというのが人間の悲しさなのです。

つまり、私がお念仏を称えようが、袈裟衣に身を包もうがする時は何でもするのが人間です。「お坊さんは修行されているから」と言われますが全く関係ないのです。

警察官だって、代議士だって、お医者さんだって、教師だって、社会的地位のある、学歴も地位もある人であれ、縁あればいつでも悪行ができるのが人間なのです。

これが人間の悲しさです。

仏様が見られる世界はこういう世界なのです。

人間の私たちが見ている世界とはまったくちがうのです。


だから、私たちの目線で仏さまを見ても意味がないのです。

ですから仏教では真実の仏さまを常に仰いでいくのです。

ですから真実に出逢っていても、それをこっちに置いたらあっという間にわからなくなってしまうのです。


『歎異抄』第十三条に、

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」


「わがこころのよくてころさぬにはあらず」


ここを読むだけでも人間って愚かだよなって思いますよ。

人間って優れているっていうけど、確かに文明・知識などは、他の生き物より先んじていますが、煩悩の面からいうと人間は他の生き物より深いものがあります。

人間は「欲の生き物」、動物は「本能の生き物」と言われます。

生き方が全く違うのです。

つまり今世間わ騒がせてるクマは、「人間を襲って食べ物を奪ってやろう」などと欲でそうしているのではありません。「食欲を満たしたい」という欲求でのみの行動です。たまたま人間と出くわしてしまったから自分を守ろうという防衛本能がそうさせているということのようです。

それを私たち人間が自分たちに「欲」の生き方を彼らに当てはめてクマが人間を殺すとか言っているのです。そもそも人間がクマの生息域に入り込んでしまってることが悲劇の現実ではないかと私は思っています。


そのような生き方の人間ですから、宗教心がなければ、煩悩という迷妄から救われることはないのです。

つまり人間に生まれた尊さは、仏法を聞くことができる器である、そのように生まれたということなのです。そう生まれたのに聞かずに人生を終えたら勿体ないです。

聞く機会を持たせていただくと、いかに自分勝手な愚かな生き方をしてきたかを思い知らされます。愚かな生き方をしてきた私を阿弥陀さまは、それでもそれでもと常に喚び続けていてくださったんだなあと思えるのです。


「弘誓のちからをかぶらずは いづれのときにか娑婆をいでん 仏恩ふかくおもひつつ つねに弥陀を念ずべし」(「高僧和讃」)


親鸞聖人のご和讃です。

娑婆とは、苦悩の世界と訳されます。

意味は、如来の真実世界によらざれば、いつこの苦悩の世界を出離することができただろうか。という仏徳を讃えられた和讃であります。


娑婆を出たところが浄土ですから、浄土往生の正因です。


蓮如上人も、『御文章』で、

「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」と言われたのであります。


『信心』都呂須孝文師著を参考にしました。


有難いことですね。皆さまもこのみ教えを私に伝えてくださったご先祖が有り難く思いませんか?喚び続けてくださったのです。私を浄土の仏にするためにずっとずっと前から喚び続けていてくださったんだなあと思えたら、今いただく仏縁が大切と思えると私は思います。お父さん、お母さんありがとう。ナンマンダブツ

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