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人間の苦悩はどこから

よく見かける掛け軸に「洗除心垢」(せんじょしんく)がありました。

これは『仏説無量寿経』にある言葉で「心の垢を洗い除く」ということであります。


しかしながら私たちに、これを実践することはできるのでしょうか。私は到底できません。

学生の頃、禅の道を志しチャレンジしたことがありましたが、お恥ずかしいことにも理想だけで、とてもできたものではありませんでした。


私に備わっている煩悩は、貪欲(貪りの心)、瞋恚(怒りの心)、愚痴(真実に暗い心)の三毒の煩悩であります。もちろん他にもあるのですが、この三つですら克服できない私がどうして真実を知り、悟りを得ることなどできるでしょうか。


「死ねば仏」、そんな都合の良いことしか思いつかないのに、心と身体の煩悩から逃れられない凡夫だというのに、どうやって仏になるつもりなのでしょう。


仮に一つ洗い流せたとしても次から次へと湧いて出る私に備わっている煩悩を全て洗い流すことなどできる訳ありません。


人間の苦悩は「内」から湧いて出てくる。


親鸞聖人は『一念多念証文』の中で、「凡夫と

いふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、せねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」と述べられました。


三毒は、私が作り、私を苦しめていく煩悩であり、苦悩の世界であります。

このような苦悩から逃れられない私に、善導大師は、『般舟讃』の中に、「仏身円満にして背相なし」と言われました。


仏さまは衆生(いのち)に背を向けることがない。つまり、他人事がない方が阿弥陀如来さまであると言われるのです。

阿弥陀如来さまは、「苦悩の人生を畏れなく歩んでいける道を届けると、南無阿弥陀仏の名のり出て、声となり苦悩の私を喚び続けておられるのです。」


原口針水和上は、【われ称えわれ聞くなれど、南無阿弥陀、つれてゆくぞの親のよび声】と、おっしゃっておられます。


私の煩悩(三毒)は尽きることがありません。


しかし『正信偈』に、不断煩悩得涅槃[煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり(うる)]


お念仏を慶ぶ人の人生は、この身には三毒の煩悩世界にありながらも、真実の智慧と慈悲である南無阿弥陀仏のおはたらきによって、煩悩に煩わされる(わずら)ことのない世界が開かれていくのです。これを他力本願と言うのです。


仏さまを私が握っていこうとすれば、あっという間に自力の世界に陥ってしまうのです。

そこを知りたいのならば、お聴聞を重ねるしか道はございません。


他力に身をまかせていくなればこそ、凡夫が仏になるのだから。それを忘れてはなりません。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏



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