top of page

人生は試練

皆さま、おはようございます。

今日から六月です。衣替えですね。

法衣クリーニングに出さなきゃね。


さて私は少し気が滅入って体調崩していました。もう大丈夫です。


この街、東町に暮らして早六年目にして初めて訪れた【試練】でした。

長いこと生きてきて、おかげさまでたくさんの車に乗ってきたけど、こんなことをされたのは初めてでした。


日頃から人様には「人生は苦なり」と語ってきた私が一番わかっていなかったかも知れません。なるようにしかならないとか、なったまんまを受け止めて生きることを語っていました。


それなのに•••自身のことになるとからっきしなんだからね、情けないです。


しかし体調を崩して横になって、ずっと考えていた。

「あ〜、才市さんや源左さんが言われていたのはこのことなんだね。」


私は私のものに【執着】していただけでした。


人生皆借り物。


そう思えれば何事になっても大丈夫だと。


他人を責める根性しか持ち得ない愚かな私。

全ては【因果の道理にある】


世の中はコロナ禍の苦しみの中で思考が麻痺しておられる方も少なからずおられます。

私はおかげさまで仏法聴聞を知らせていただいていますからこのようなことを思うのですが、そうではない方々はシンプルに【妬み•腹立ち•嫉み】で私を見ていたのでしょうか。


それは仕事車への剥離剤のかけ方と、プライベート車への剥離剤のかけ方があまりに違うところにも顕著になっていましたからね。


そう冷静になってみると色々なものが見えてきました。

永六輔も、「生きるということは誰かに借りを作ること」「生きていくということは誰かに借りを返すこと」とおっしゃっています。


仏法聴聞するということは、浅はかな自身の殻からの脱却をすることを知るんですね。

【自分は正しい】🟰【他人が悪い】


これで[争い]が起こるのですね。

阿弥陀さまを知らされると、[浄]の境地を知るのです。

[浄]とは、[争いを失くす世界]です。

阿弥陀さまのご本願のみがそれを実現します。


南無阿弥陀仏とお念仏と共に生きていくならばこの【試練】も良い結果を産むのではないでしょうか。そう思いながら。

周りを責めずに生きていこう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

最新記事

すべて表示
不断煩悩得涅槃

人間たる者は、日々の生活の中で 煩悩から逃れることは非常に難しいというか、 死ぬまで苦しみ続けるものです。 かの一休禅師も最後の言葉は「死にとうない、ほんまじゃ」であったと言われるほどです。私たちのように日々、仕事に趣味を持ち、家族を持つものにどうやって修行をし、それを成し遂げることなどできるのでしょう。無理です。 煩悩を克服できない者は死んでも悟りの境地に至ることなどないのです。 三毒の煩悩 貪

 
 
 

コメント


bottom of page