亡き人を仏と拝むか、死者と弔うか
- 超法寺の住職

- 13 分前
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亡き人を仏と拝み、拝まれる仏になると今を生きる
息絶えて安らぐ兄や秋の空 〔中日新聞 名古屋市 鈴木修二さん〕
死は涅槃です。生前苦しまれたのでしょうか。
苦しんでお辛かったのでしょうか。息絶えてようやく安らかなお兄さんのお顔になったのでしょうか。死は安らぎです。
お釈迦さまの説法は「人生は苦なり」と始まりました。
人間、誰もが高齢の身になれば、この言葉が「まこと、まこと」と、深く思われます。老いと病は相互に関わりながら進んでいきます。
私も先日、十数年ぶりにお会いした宇都宮市のご住職と、毎日飲んでいる薬の数を言い合ったものです。薬を飲まねば生きていけない、それだけ生きてきたのですね。
また人間は誰もが「自分が一番可愛い」。
これを煩悩具足と言います。
この自己中心の我執我欲〔がしゅうがよく〕の煩悩から離れられないお互いが家庭を作り、社会を作って生きているのです。
勝った負けた、損した得した、憎い愛している、悩み苦しみを作りながら生きているのです。
人生は苦なり、誰の人生を見てもそうです。
苦なる人生であるゆえに、人間は人生を、自己を深く反省し、自己を知り、他を思いやることもできるのです。苦あればこそ、苦悩なき世界を、真実なる世界を求めるようにもなるのでしょう。
その苦悩の人生を、大慈大悲の阿弥陀如来に抱かれて「苦悩なき浄土に生まれ仏になります」と、生きていく道がお念仏の道です。
この身体についた苦しみ痛み、l心の悩み悲しみは、生きている限り続きます。
しかし死んだら終わる。苦しみも痛みも、悩みも悲しみも死んだら終わります。
これを涅槃と言います。
痛みや苦しみ、悩みや悲しみは終わるが〔阿弥陀如来に出遇えれば〕私は終わりません。
私は浄土に生まれて仏になって、子どもや孫やご縁のあった人たちの上に、仏のはたらきとなって生きていく。これを無上涅槃〔むじょうねはん


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