一人じゃないぞ
- 超法寺の住職

- 4月2日
- 読了時間: 2分
皆さま、こんばんは。
今日も一日雨模様で寒さも厳しくなりました。
桜の開花から春というか梅雨っぽい天気が続いていますね。なかなか私たちの都合良くはなりません。諸行無常の理とはこういうもの。
不足は我が欲望の為せる技です。
不足に生きるか、知足に生きるかは仏さまを知ることができているかどうかだと思います。
皆さまはどちらですか。
常に阿弥陀さまを憶念しながら日暮らしを重ねていますか。それとも不足=文句ばかりの日暮らしでしょうか。
南無阿弥陀仏のお念仏をお称えすることができる人は、仏さまが私に来ていてくださる。さとりの世界より南無阿弥陀仏の声となって来てくださるといただきたいですね。
阿弥陀さまが私に宿っている証拠が、私の口に南無阿弥陀仏の声となっている姿であります。
その度に「大丈夫だよ、心配ないよ」
「一人じゃないよ、決してあなたを一人にはしないよ」と、阿弥陀さまは我が人生をご一緒していてくださいます。
人間は、一人だと思うと好き勝手をしがちです。何をしていても、どのような格好をしていても恥ずかしくありません。
でも一人ではないと知らされたら•••••。
お念仏とは、仏さまの眼差しの前に我が身を置くということです。いつも阿弥陀さまが見ていてくださると知らされたら恥ずかしさを知りますよね。そして恥ずかしいと思えば、恥ずかしくないようにするのです。
しかし、そう簡単には恥ずかしくないようにはなれません。だって他人には厳しい私も、私には甘々なんですからね。
やはり、ご恩報謝を知ることですね。
阿弥陀という仏さまは、なかなか恥ずかしいを知ることができない私を、「責めもせず、裁きもせず、そのまま必ず救うから、まかせよ」と、阿弥陀の方から煩悩から離れられない凡夫たる私に飛び込んではたらいていてくださるのです。これが【他力本願】であります。
私の都合良くにはなりません。
ということは、南無阿弥陀仏とお念仏をお称えする人は、「他人を責めない。他人の罪を許すことができる人格にお育てをいただきます」
これも【ご恩報謝】であります。
少しずつ、少しずつ、日頃からの仏法聴聞を重ねていく中で、自身に厳しく、他人には優しい人間にお育てをいただくのですね。
私はまだまだ他人に厳しい愚か者であります。お恥ずかしいです。
それでも私を見捨てない阿弥陀さまがご一緒くださいます。有り難いですね。
南無阿弥陀仏




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