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やっぱり「こそ」は向こうにつけてが大事

お念仏を喜んで生きぬかれた妙好人【源左】さんは足利源左という人です。

生前言われていたのが、「こそ」という字は、人の下につけさせてもらいましょう、このように言われました。

では「こそ」を人の下につけるとはどういうことでしょうか。


「一日一日無事に日が送れるのも、お父さんがしっかり働いてくれればこそ」、

「おばあちゃんが若い人が気づかれないところを気づかっていればこそ」、

「お嫁さんがしっかり家を守ってくれればこそ


こそ」を向こうに持っていくと気持ちいいですね。


しかし実際にはどうでしょうか。

「こうして暮らしていけるのは、私が家計のやりくりをすればこそ」、

「言いたいことも言わずに、私が辛抱していればこそ」、

「あれこれ私が頑張っていればこそ」


「こそ」をこっちに持ってきてしまうのではないでしょうか。

私がいればこそ」と、気張って、力んで、その挙句に、自分も辛い思いをして、周りの人をも苦しめてしまう。それがなかなかわからない。お互いに苦しんでしまうのです。


そのような生き方をしている私たちに向かって、「お前一人ではないよ。いつでも阿弥陀が側にいるぞ、気張るな、力むな」と、私の肩を揉みほぐしに来てくださる、苦しみのどん底にいる私の胸を開きに来てくださる方が阿弥陀さまであります。

こちらからお願いしなくても、先を見越して阿弥陀さまの方から私に来てくださる仏さまであります。そのはたらきを【南無阿弥陀仏】というのです。

呪文や極楽参りの引換券ではありませんよ。


浄土真宗をお開きくだされた親鸞聖人は、私を本当のしあわせにしてくださるのは阿弥陀さまを仰いで南無阿弥陀仏を称えながら生きていくことなのだと教えてくださいました。


ですから、肩に力が入ったら「南無阿弥陀仏」と声にして称えてみてください。

誰もわかってくれなくても、この私をわかっていてくださる阿弥陀さまが私とご一緒してくださっているのですから安心じゃないですか。

「一人で気張らず、力まず、肩の力を抜いて、私の人生を私らしく精一杯生きていこう」という人生が開けてくるのです。お念仏を称えるとは実はこういう素晴らしいものですよ。

人生を柔らかく、豊かに生きていくこと。私一人で生きているんじゃない。たくさんの人たちに支えられ、許されて生きていることを、このお彼岸を新たな仏縁として法話を聞いてみませんか。

聞いたつもりではいけませんよ。

生活に一部になるくらい仏法聴聞を重ねていくことで、少しずつですが源左さんのような生き方をするようになるのではないかと思うのです。


さあ今日も一日、尊いみ名【南無阿弥陀仏】を称えながら生きていきましょう。

南無阿弥陀仏

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