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まかせきるためにはお聴聞

弥陀をたのめる人は、南無阿弥陀仏に

身をばまるめたることなり

      『蓮如上人御一代記聞書』


「弥陀をたのむ」とは、阿弥陀仏を信ずることであって、『御文章(御文)』を読みますと、しばしば「たすけたまえとたのむ」というように用いられています。


つまり阿弥陀仏のおたすけ(救済)を信ずることであり、自身の地獄行きの自覚を持ち、悔い改めていこうとの思いと、死ぬまで煩悩から離れられない凡夫としての自覚をもとに、全てを阿弥陀仏にまかせきるこです。


自身の地獄行きへの自覚のない人に、どうやって他力往生に喜びなど感じるでしょうか。

自力はまるで当てにはならないことです。

「身をまるめる」とは、身をまかせるということであって、自身のすべてを投げ出してまかせきるという意味です。

したがって信ずることの内容を示しています。


一遍上人の語録に、

「念仏の行者は、智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤も(もっとも)かない候へ。かように打ちあげ打ちあげとなうれば、仏もなく我もなく、ましてこの内に兎角(とかく)の道理なし」とあります。


「捨て聖(ひじり)」と言われた一遍上人の面目を生き生きと伝えています。

上人の念仏には求めるものはなく、また恐れるものも何もなかったのです。そこに信ずる(たのむ、身をまるめる)ということの力強さがあります。


詩人、坂村真民さんは、この言葉に深く感動され、信仰の極地を見られています。

弥陀を信ずるとは、南無阿弥陀仏に自身のすべてをまかせきっていることをいうのです。

そこに自身のはからいは無用なのです。

一切を捨てて阿弥陀仏、つまり南無阿弥陀仏にまかせきる、これこそがであり、念仏の行というのではありませんか。


皆さまの生き方はまかせきるになりますか?

なりませんよね?

煩悩具足たる「欲」が常に邪魔をしてしまいます。だからこそなかなかまかせきるなどできないのであります。阿弥陀仏はそこをきちんとご理解くださった上で、心配ないぞ、我が名を申せよ、とあらゆる手立てをもってはたらいていてくださいます。


どうぞ、大切な人が身をかけて人生の無常を教えていてくださるのですから、お仏事を疎かにしないように年回の法事、毎年の祥月命日、お彼岸、お盆を「縁」としてお寺に足を運んで欲しいです。

蓮如上人は、「暇をかぶりて聴聞すべし」と、おっしゃいます。

暇があったらという人はお寺には参られません。「暇を作って聴聞しなさい」と、おっしゃっているのですね。


確かに趣味なら、どんなに忙しくてもスケジュールを調整しているでしょう?それと同じで、私たちの人生は待ったなしです。

縁が尽きたなら若いとか元気とか待ってはくれません。せっかく仏法聴聞ができる人間に生まれたというのに、聴聞もせずに、お念仏をお称えすることもない人生なら本来の目的を達成することがなくなってしまいます。


油断しないでください。

死ねば仏」は、南無阿弥陀仏に出遇えた方のことですよ。そうでない人は、死してなお、苦しんでいかねばならないのですから。

神仏は私の都合の良いために存在しているのではありません。

親のようにあらゆる手立てをして私にお気づかせをくださっているのです。


気づくのか気づかないのか、どちらを選ぶのでしょうか。

お聴聞は、親の願いをお聞かせいただくのです。親に背けて幸せになれますか?


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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