とても地獄は一定すみかぞかし
- 超法寺の住職

- 5 時間前
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今日は行き4時間、帰りは3時間の運転で先程無事に帰院しました。連休だからでしょうか、かなり人の出は多く車も多かったですね。
車が混みますとイライラすることも多かったりしますよね。前が遅かったり、急に車線変更して割り込んできたり、早めのウインカーで入れて欲しいなぁなんて思っていても、明らかに入れてたまるかみたいに詰めてくる車に腹を立てています。
これこそ修羅道の種であります。
あれもこれも自分の都合、物差しで周りを測ろうとする私。今は代車で周りからは舐められているのか、やっぱりいい車に乗らなきゃ、乗りたいな、これまた餓鬼道の種ですね。
このように毎日ろくな生き方をしていません。
私がしていることは、地獄へ行く準備ばかりではないでしょうか。それなのに私は南無阿弥陀仏のお念仏を称えながら生きているからと、あたかも南無阿弥陀仏を免罪符のように思い違いをしている私ではありませんか。
こんなことを一生繰り返しているのですから、私の努力で往生することなんかありはしないのです。まさに私そのものの姿が「とても地獄は一定すみかぞかし」です。
お浄土参りを自分で確立した上のお念仏ではありません。
お浄土へ行けなくて地獄へ行ったら大変だとおもって念仏する。
そういう疑心の念仏でもない。
念仏の結果が何であろうとも、念仏以外に私のすることは何も残されてはいない。
そういう世界が「ただ念仏して」なのであります。
十方の衆生(あらゆる命)を、そのまま救う。
この単純無比な如来さまの言葉に、この私の身も心もまかせてしまう。
これこそが親鸞聖人が教えてくださった他力の信心です。
「弥陀の誓願不思議に たすけられまゐらせて 往生をば とぐるなりと信じて 念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」『歎異抄』(第1条)
ただ念仏して
ただはただでも ただじゃない
聞かねばただはもらわれぬ
聞けば聞くほど ただのただ
ハイの返事もあなたから
聞くという私の行為も、信じるという私の意思も、称えるという私の行為も、すべて阿弥陀如来のはたらきがあればこそなのです。
花を見て「美しい」という感情を持つのは花が与えてくれるものです。
私の意思ではありません。
この無常世界(人間)は、私の思うようには生きられないのです。それなのに何とか自分の思い通りに生きようとするから「苦」になるのです。
他力の信心とは、阿弥陀如来のお心を聞き、そのみ心に出遇うこと、忘れたらまた聞いて、気づかせていただくことを信心というのです。
する信心ではありませんよ。
恵まれていただく信心、これを他力の信心と言うかです。
なぜ阿弥陀さまと言うのか、それは十方微塵世界の念仏する人を一人残らず救いとってくださる仏さまですから阿弥陀というのです。
あらゆる世界に南無阿弥陀仏の声のはたらきとなって、あらゆる命の上にはたらいていてくださいます。
だからこそ、人間としての命があるうちに南無阿弥陀仏の声を聞いてください。その声を受け止めたら、愚痴を申す私の口から南無阿弥陀仏の声が出てきてくださいます。
これができたら安心であります。
どんなことに遭っても安心です。
親鸞聖人はご和讃に、
念仏申さんとおもひたつこころのおこる
とき、すなはち摂取不捨の利益に(りやく
)にあづけしめたまふなり
と、おっしゃっておられます。
それを確信するためには、日頃からの仏法を聞く(聴聞)が大切であります。
ですから聞即信と言われるのです。
地獄行きの準備ばかりに勤しんでいる愚かな私を阿弥陀さまはみそなわして他力の信心をもって誓願を建て、先手のおはたらきを南無阿弥陀仏の声となり常に届けていてくださいます。
それなのに私がしているのは、自分の思い通りにしたいという地獄の




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