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たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

人生はやり直すことはできないけれども、見直すことはできます。

たった一度の人生であります。


どんなに後悔しても人生をやり直すことはできないのです。

皆さまはそれをよくわかって毎日を過ごしておられるでしょうか。

「たられば」は人生においてナンセンスであります。


動物が生きる姿に好感を得るのは、彼らが過去を振り返らず前だけを向いて必死に生きているからではないでしょうか。人間は過去に良い思い出があったりすると、その時に戻ったらとか思うものです。それでも、どうにもならないのです。

いいも悪いも、やってきたことはたとえ失敗だとしてもそれを抱えて生きていかねばなりません。


今日ある投稿を見ていたら『般若心経』は万能のお経だからという。

本当にそうなのでしょうか。確かに自力の世界では素晴らしいものでしょうが、この精神に生きることは現実には大変に難しい内容なのを意外と知らないのではないでしょうか。お経も短いし唱えやすいから親しまれているのですが、浄土真宗ではこのお経は用いません。浄土真宗は自力で修行の道ではなく、阿弥陀仏のご本願におまかせしていく他力の道です。般若心経の内容にはそぐわないのです。

ですから、読めばそれでいいようなものではないのです。

実践してこそ意味をなすのです。しかし人間というものはどうしても自分勝手な解釈をしがちであります。悲しいかな、浄土真宗の門徒でも般若心経を読んでいるという人が実は多いのが現実です。これこそが門徒もの知らずであります。


とにかく人間と如来さまは見る尺度が全く違うのであります。

命そのものを無条件で認めてくださっている。

こうならなきゃダメとか、信心が足りないとか、そんなことは如来さまはご覧にならないのです。カルトによく言われることは如来さまは一切仰っていないのです。

だから普段から仏法を聞くことが大事なのですよ。常に欲に趣を置いているからなんです。あらゆるものをそのまま、絶対のいのちとして認めてくださっている。

それが南無阿弥陀仏であります。


生きれるように生きて、死ねるように死んで来いとと阿弥陀仏は仰っているのです。

【我が名を称えて往生せよ】と言うのです。

遠く宿縁を慶べとは、お念仏に遇うことによって私にとって不幸な出来事であったと思えないことにも、お念仏の智慧によって意味を見出すのです。

「人生はやり直すことはできないけれども、見直すことはできます」の見直すのは南無阿弥陀仏のお念仏の智慧であります。


本願力にあひぬれば、むなしくすぐるひとぞなき


この私の人生に100%の意味を持たせてくださるのです。

決して虚しくはないぞ、とはたらいていてくださるのです。

「うるさい」、「このやろう」、「ふざけんな」、その一言を「なんまんだぶつ

、これで満足か、お母さん」

これは反抗期に私が母にぶつけた言葉です。

これに母は、「やっと、お兄ちゃんがお念仏言ってくれたわ、お母さん嬉しい」

驚かされました。

ここまで私のために心を砕いてくれた我が母。今更ながら、善知識のはたらきでありました。


長くかかりましたね、実に気が遠くなるほどの時間を私に南無阿弥陀仏を受け取らせるためにはたらきづめのおはたらきでありました。もう大丈夫です。毎日いつでもどこでもこの愚痴の我が口に南無阿弥陀仏は声になって出てくださいます。

これは残念ながら『般若心経』ではここへの道のりは届くのでしょうか。私はお母さんのあの一言が愚かな私を南無阿弥陀仏に導いてくださいました。

お母さん、有難う。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

、南無阿弥陀仏


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