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そのままのお救いがわからないのが凡夫の悲しさ

今週末はおかげさまで法務をたくさんいただきました。

昨今の法務減少の中、どうすればいいか無い頭を巡らせていましたが

一つきっかけになったらと思います。

しばらく僧侶派遣業者からの依頼が全く無いため、お恥ずかしながら

収入が著しく減っています。それでもご縁の方からの依頼で何とか凌いでいました。

この度は長距離の法務が重なり、もし事故や渋滞があったら間に合わないリスクが想定されました。

それでも、一か八か受けたのです。

すると今まで依頼がなかったのが嘘のように、立て続けに依頼がありました。


ひょっとしたら業者が受けてくれるお寺さんが見つからずに困っていたのに超法寺

が受けてくれたのが今回の法務依頼に繋がったのかもしれません。

超法寺は仕事を選びません。

もちろん場所も関東一円、時間的に無理でない限りお参りさせていただきます。

今回は都内、秩父、群馬県とかなりの広範囲でした。

今日に至っては横浜市、逗子市とハードなスケジュールとなりましたが、おかげさまで何とか無事に予定通りお参りさせていただきました。


今後も出来る限り依頼してくださる法務を勤めていきたいです。

是非お声掛けください。


さて超法寺では常々仏法聴聞を大切にしています。

聴聞は何を聞くのか、ここを間違える人が多い気がします。

ただぼんやりと自分の好きなことばかり聞くのではありません。

仏さまの親心を素直に聞くのです。


浄土真宗のお念仏の行者は、「ご安心」(ごあんじん)を我が身にいただきます。

私が好きとか嫌いとかではないのです。

何故なら、私には真実がないからです。

真実でないものに真実を求めることがそもそも無駄なのです。

そこに目覚めなくては人間に生まれた意味がないことになります。

恩師の言葉を思い出しました。


食わねば生きられないは生活の問題


食っても死ぬは人間の問題

           

人間の問題の解決は、もうすでに阿弥陀如来さまが引き受けてくださっておられます。それなのにどうして凡夫たる私の好き嫌いで推し量ろうとするのでしょう。

親鸞聖人も蓮如上人も、南無阿弥陀仏一つとおっしゃっておられるのに、「私は帰命尽十方無碍光如来を称えている」と天邪

鬼のような言動をしてしまうのだろうか。

超法寺ではそのようなお取り継ぎはしておりません。


親鸞聖人がおっしゃっておられる「ただ念仏のみぞまことにておわします」のは「唯一」ということなのです。

聞いても聞いてもわからない、聞いても聞いてもお念仏が申せない私がいるから阿弥陀如来さまは南無阿弥陀仏の仏さまになってくだだったのですよ。

それなのにどうして背を向けて自分の殻に閉じこもって安心(あんしん)しようとするのでしょうか。


それをわかっていただけるものを私はまだ持ち得ていないのかと思うと悲しくなります。しかしだからこそ生涯をかけてお聴聞していかねばならないのです。


好きとか嫌いとかではないのです。

死ぬまで煩悩具足のままの私であるからこそ、先人がおすすめくださる南無阿弥陀仏を我が身心に置きながら生きていかねばならないのです。

老い、病、死は避けられない。

私の都合よくしようとするから苦悩する。

ただ今の自分を丁度いいと思って南無阿弥陀仏を灯火としていく。これこそが凡夫たる私の生きる道だと思うのです。


一緒に訪ねてていきませんか


南無阿弥陀仏

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