お念仏を称えながらの人生
- 超法寺の住職

- 8月28日
- 読了時間: 3分
皆さま、こんにちは。
いよいよセミの鳴き声も静かになり夏の終わりを迎えているのでしょう。そして暦も早八月の終わりを迎えています。
あっという間に日は過ぎ去ります。
今日すら、もう半分が終わっていますから。
このように私たちの生きている世界は新幹線並みに速くすぎるのですね。
さて皆さまは毎日どのように過ごしておられますか。「浄土真宗の生活信条」には、【み仏の誓いを信じ尊いみ名を称えつつ強く明るく生きぬきます】とあります。
もちろん浄土真宗のみ教えを仰いでおられる方には浄土真宗の生活信条を実践するように努めておられることでしょうね。
いかがでしょうか。絵に描いた餅になってはいませんか。
浄土真宗のみ教えに生きるとは、「一人じゃないよ」と、阿弥陀如来の願いを常に心に保ちながら南無阿弥陀仏を燈として生きていくことであります。もちろん回数が問題ではありません。忘れずに保ちながら生きていくのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏•••••私を私たらしめているのが阿弥陀如来のおはたらきです。
いつでもどこでもご一緒くださるのです。
親鸞聖人はご和讃に、
「南無阿弥陀仏をとなふれば、十方無量の諸仏は、百重千重囲繞して、よろこびまもりたまふなり」
と、おっしゃっています。
いつ何時この命が終わるかもしれない危うい我がいのちを、我が命と共に歩んでいてくださる阿弥陀如来、諸仏のはたらきとなり私に寄り添っていてくださるご先祖方々は、南無阿弥陀仏の声となり、願いとなり、はたらきとなりお念仏を称えさせていただく私と共にあるのです。
それが疑いなくわかる私になれたら、御守りやお札が全く気にならなくなります。
気にならないと言いながら、「ご先祖がしていたからもらわないといけないと思うのです」などと、おっしゃる方もありますがそれは阿弥陀如来のお救いを疑っている証です。
真実に遇えたならば、真実のままに生きていくことこそが他力本願のみ教えに遇うということなのです。私の都合に合わせていくことは他力本願の教えではありません。
ここを納得されませんと、いつまで経っても真の念仏者にはならないのです。
仏をこちらに持ってこようとすると地獄が近づくのです。私を仏へ置いていくからこそ、地獄を日々作りながらの私が浄土へ参らせていただくことなのです。
だからこそ、常に南無阿弥陀仏を称えながら、この身を阿弥陀如来の中に置くのです。
[籠耳]
聞いて忘れて、忘れて聞いて、わたしゃ籠耳、お慈悲の水に今日も一日ざぶりと浸かり、ご恩よろこぶしあわせ者よ[渡辺尚爾師]
浸かるのは、南無阿弥陀仏を称えながら生きていくことだと思うのです。
[み仏の誓いを信じ尊いみ名を称えつつ、強く明るく生きぬきます]
今からでも遅くありません。南無阿弥陀仏を称えながら一日を過ごしてみませんか。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




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