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浄土真宗の「宝物」とは

更新日:8月29日

我が師匠(私が勝手にそう思っている)が「宝章」(ほうしょう)と常々言われているものに『御文章』があります。

文字通り「宝の文」ということで浄土真宗では大変大切にして通夜、法事、布教の際に必ずと言ってこの『御文章』を拝読します。


最近ではよりわかりやすく『拝読親鸞聖人のみ教え』を拝読しますが、どうして『御文章』を宝章と言うのかと言いますと、蓮如上人が『安心決定鈔』(あんじんけつじょうしょう)を大変大切にされ、読むたびに金(こがね)を掘り出すような、宝物が出てくるようなお聖教(しょうぎょう)であると喜んでおられる。


南無阿弥陀仏こそ「宝」です。


度々出てくるのは、【南無というは、即ち是れ帰命なり。亦(また)これ発願廻向(ほつがんえこう)の義なり、「阿弥陀仏」というは即ち是れ其の行なり。斯の(この)義を以ての故に、必ず往生することを得(う)】。


何回も出てきます。

根幹であります。


この六字釈、南無阿弥陀仏こそが「宝」であります。


【弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主となるなり。南無阿弥陀仏の主となるというは、信心をうることなりと云々。また当流の真実の宝というは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なり】


[現代語訳]

罪はいかほど深くとも、我をたのめ助くる、というのが南無阿弥陀仏のおいわれ、阿弥陀如来さまからの仰せであります。


【このゆえに阿弥陀如来のおおせられけるようは、末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、罪はいかほど深くとも、われを一心にたのまん衆生をば必ず救うべしとおおせられたり】


[現代語訳]

如来さまのおおせでございまして、このおおせが私に至り届いてくださったところが、「助けたまえとたのむ」機相の南無阿弥陀仏であります。南無はたのむ機(衆生)、阿弥陀仏は救う法、南無阿弥陀仏がそのままが如来さまのお喚び声、南無阿弥陀仏そのままが私の信心の姿、南無阿弥陀仏これ一念の信心なり、とお示しくださるのでございます。

こういう宝をいただいた人が強いのは当たり前でございます。


人がなんと言われようと、私はもう阿弥陀如来さまとご一緒なんだというところから、人が嫌がる迷信も踏み越えて、乗り越えていける世界、それを【念仏者は無碍(むげ)の一道なり、そのいわれいかんとならば信心の行者には天神地祇(ちぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道も障礙(しょうげ)することなし、罪悪も業報感(ごうほうかん)することあたわず】と、おっしゃっているわけです。


私たちは神様には手を合わせるという意識があります。

しかしながら親鸞聖人は、神様が念仏者に手を合わせてくださるとおっしゃるのです。

これは昔から浄土真宗の門信徒から「そんなことはないでしょう」と疑われてきたことでありますが、現にこうやって「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障礙することなし」と、おっしゃる。


天の神、地の神もひれ伏して念仏者を敬ってくださるし、悪魔や外道も念仏者を邪魔することはできない、さまたげることはできないと言われているのです。

それはなぜか、「宝物」を我が身にいただいているからに他なりません。

六字の宝物をいただいて、宝にまるめこめられたこの私を、神様方が敬ってくださるというのでありますから、私たちも決して神様を疎かにできないのであります。


こうやって常に敬ってくださるならば、私からも礼を尽くせねばなりません。【敬えども信ぜず】

⚪︎人間に生まれて一番大切なことは、宝物を手にすること、真実の宝とは、南無阿弥陀仏であります。


恩師のお諭しに、【宝の山に入って手を空しくして帰るなよ】とあります通りに、改めて『御文章』を、味わわせていただきたいと思うと共に、南無阿弥陀仏を称えながら日々を歩ませていただきたいと切に願うばかりであります。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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