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おじいちゃんは仏さまになるんだ

皆さま、おはようございます。

今日も暑くなりました。

そして九月になりました。

早いですね。我が子みやびが往生してもう1年が経つのですね。

毎日毎日彼の名を呼び続け南無阿弥陀仏をお称えして過ごしてきたこの一年です。


何も色褪せない、思い返せば涙がホロリ。

まだ執着の思いが強いのでしょうか。

そんなことを思いながら今朝も『正信偈』和讃をお勤めしました。


皆さまも親しんでおられる正信偈和讃、「弥陀成仏のこのかたは、今に十劫をへたまへり、法身の光輪きはもなく、世の盲冥(もうみょう)をてらすなり


皆さまは、「死は縁起が悪いから」そんなことを言われたり、思ったり毛嫌いしていませんか。これは浄土真宗のみ教えを聞いている人でさえそうなのではないでしょうか。


『徒然草』には、「死は前よりしも来たらず、かねて後にせまれり」[死とは生が尽きた向こうにただ待っているとばかりはいえないよ。私の死はこの生の初めから常に私の生命を脅かしているものです。]

私の生と死は常に表裏一体であります。

私を離れているものではありません。

生きることを真剣に考えていくならば、当然ながら死も真剣に考えていくものなのです。


『大往生』という有名な本があります。今は亡き永六輔さんの名作です。

その中で、富山県の温泉での話が印象深かったので、ご紹介します。


「孫にさ、孫にだよ。おじいちゃん、大きくなったら何になるの?って聞かれちゃった」


富山の湯治客の老人はこう言って涙ぐんだ。

その孫に答える言葉を考えて老人に伝えた。

おじいちゃんは仏さまになるんだ

喜んでくれるかと思ったら嫌な顔をされた。


色々考えさせられないでしょうか。

私たち人間がさまざまなことを考えて生きている証拠ですよね。きっとこうなりたいの希望もあるのでしょうね。

SNSの投稿で圧倒的に多いのが、「虹の橋を渡って天国へ行く」ですね。

いかに我が日本が無宗教であるかを象徴する言葉ではないでしょうか。


「それいけ、アンパンマン」の歌詞には、「何のために生まれて、何のために生きるのか、わからないなんてそんなのはいやだ」

皆さま、子どもさんやお孫さんから尋ねられたら答えるものをお持ちでしょうか。

お持ちでないなら、「死んだらどうなるのか」の答えなどあるはずないですよね。

死亡率100%だというのに、思春期の子どもたちに答えを教えられない大人って意味があるのでしょうか。


すみません、言葉が乱暴になりましたね。

意味もわからずこの生命を生きているって不安じゃないでしょうか。

仏教は、無責任極まりない私に、生命の意味と人生の方向性を知らせて、真実に目覚めていくように促して生きていくようにはたらくものがあります。生命の法則でもあり、法のはたらき、仏法を知る教えなのです。


私のことを一番知っているのは私ですね。

私の生命は私のものですから、できる限り他人に迷惑をかけずに自己責任で生きています。

そう思って生きてはいませんか?

こんな状態を盲冥(もうみょう)というのです。「盲」見えない、「冥」は暗い。


「迷いの世界に彷徨うあらゆる衆生(いのち)を盲冥とよぶ」とあります。


このいのちは私のもの、所有物、だからどうやって生きていいじゃないか、こういう我を中に閉じ込めて本当の自分の生命を見失っている私(人間)に、かけがえのない生命を真実に目覚めさせていくはたらきこそが仏という大いなる法則なのです。


自己中心の1人の世界から、我皆共に、この広い生命の世界を生きてください!

南無阿弥陀仏


十方衆生を喚び通しであるのです。

「仏さまになるんだ」が普通に言える、そんな人生でありますように願うばかりです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏



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