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『仏説観無量寿経』のお心

更新日:4月21日

皆さま、おはようございます。

今朝はひんやりして曇り空です。

今日は不思議なご縁で東京都中野区へお参りいたします。あれば喜び、無ければ憂う、そんな常に気持ちが揺れ動く私。

ライオンズが勝てば喜び、負ければ腹を立てる愛情の薄いファンならぬ不安が私。

また、やはり常に自分の都合で場合によっては人も傷つけ、実の親[私はもういない]でも、我が子[そもそもいない]でも殺しかねない恐ろしい煩悩に満ちた凡夫[死ぬまで煩悩から離れられないこの私]は、南無阿弥陀仏を仰いでいく他には救われていく道はございません。


そのことをお説きくださったのが『仏説観無量寿経』であります。

このお経に、「もしお念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ、人中(にんちゅう)の分陀利華(ふんだりけ)なり」と、お釈迦さまが、お念仏する人を讃えられます。

【分陀利華】とは、ブンダリーカの音写語で、白蓮華(びゃくれんげ)のことです。

蓮華は清流には咲きません。

泥沼に咲く白の華は、その泥沼を清浄ならしめるような感じを抱かせます。そこで古来、仏さまや仏さまの教えを讃えて白蓮華と言い表してきました。


その白蓮華をもってお釈迦さまは、恐ろしき煩悩を持つ念仏者を讃えられ、また中国の善導大師は、その念仏者を【妙好人】(みょうこうにん)と言われました。

「言葉では言い尽くせないほど尊く好ましい人」ということです。私とは違う。

お念仏【ナンマンダブツ】を我が身にいただく人は、煩悩具足の凡夫のままに、必ず仏になることに定まった菩薩の人生を歩む人であります。そこで、お念仏申すあなたを、人が褒めるのではなく、仏さまがそのように褒め讃えるのです。


皆さまはその口が南無阿弥陀仏(ナンマンダブツ)と常に声(言葉)になっていますか?

阿弥陀様は、我が身にいただいたら必ず愚痴の口に声となり南無阿弥陀仏が出るように仕上げてくださっていますから、いただいたつもりの方は声にはならないのです。

まだ声に南無阿弥陀仏がならないあなたはまだ仏さまを疑い、あなた自身を頼りに生きていますよ。そういうあなたは、まだ自分を善人とか、賢い人だと思って生きているのですね。

でも、仏さまの前でもそう思っていたならまだ「我が身を知らない」のでしょうね。


我が身を知らない、地獄【自業苦】行きの人生を生きていることがわからない、そんな恐ろしい私を阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏[ナンマンダブツ]一つで必ず救いたいと常に願っておられます。マヤカシばかりに気を取られている私は真実なる仏さまを知るが故に我が身を知らされ、我が身を知らされるが故に仏さまが仰がれます。

いかがですか。


今日もまた阿弥陀さまを我が身にいただきながら、二人三脚で南無阿弥陀仏を[灯]として今を生きていきましょうか。

ナンマンダブツ。

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