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執筆者の写真超法寺の住職

私の生命〈いのち〉

目が覚めたら母のふところでした。

額に冷たいタオルが置いてありました。

母は涙ぐんで私を見つめていました。

電柱の北風が聞こえてくる。

真夜中のことでした。

裏戸が開いて父がかけこんできました。

薬を探し求めて帰ってきたのです。

すぐ私を抱きあげて飲ませてくれました。父の顔は

汗ばみ背中には雪がありました。

「ありがとう」とも「ごめんなさい」とも

言えないまま私は父に抱かれて泣きました。

よろこびとやすらぎの親のふところでした。

              〈川路広美師〉



こうして光景を想像しながら読ませていただくと、

どうして阿弥陀如来のご本願を浄土真宗では、「親さま」と、親に様をつけて呼んでいるのかがわかります。

我が子のような私、いや、我が子だからゆえに、必死になって救おうとご苦労くださるのですね。

親の思いなど知りもせず、理解しようともせず、自らの行動、意思があたかも正しいかのように振る舞い続けて【自業苦】〈地獄〉の命を生きているのだから。

親の苦労など知ろうともしない。

そんな愚かな私を決して捨てない、必ず救う。

だから、まかせてくれと私の目覚めを促し続けて南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ••••••と、喚びかけ続ける親が私にはいてくださる。

何とも有難いですね。


きっと我が親も、私のためにどれほど心を砕き、心を痛めて、私をここまで育ててくださったのでしょうね。

一人で大きくなったなどと、自惚れる愚かな私を責めもせずに。お父さんお母さん、ごめんなさい、そして有難うございました。


そう思えたら、南無阿弥陀仏が愚痴の口から溢れてくださいます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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