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福の神と貧乏神と私

節分の豆まきはされましたか?恵方巻きを食べて気分だけでもハッピーになりましたか。

近年では「鬼は外」は言わない世相になりました。人間は自分の都合で良くないものは排除し、都合の良いものは積極的にウェルカムします。これじゃいつまで経っても「安らぎ」など訪れないのでしょうね。


お釈迦さまが晩年に説かれた『涅槃経』に、

実に面白い話がありますのでご紹介します。

ある家に、一人の美しい女性が着飾って訪ねてきました。その家の主人が「どなたでしょうか」と尋ねると、「私は人に富を与える福の神です」と答えました。主人は喜んでその女性を家にあげ手厚くもてなしました。

すると、すぐそのあとから粗末な身なりをした女性が入ってきました。主人が「誰か」と尋ねると、「私は貧乏神です」と答えました。

主人は驚いてその女性を追い出しました。

貧乏神は、「先程の福の神は私の姉です。私たち姉妹はいつも一緒で離れたことはありません。私を追い出せば姉もいなくなります。」と主人に言いました。そして貧乏神を追い出すと、美しい福の神もいなくなりました。


お釈迦さまは言われます。

「生があれば死があり、幸いがあれば災いがある。良いことがあれば悪いことが起こる。人はこのことを知らなければならない。愚かな者は、ただいたずらに災いを嫌って幸いだけを求めるが、道を求めるものは、この二つを共に超えて、そのいずれにもとらわれてはならないのだ。」と、仰っいました。


この話は、「さとりとは、二つに分けないで一つと見る仏さまのモノサシ。人間の考えを超えた世界」、「迷いとは、二つに分けて見る人間のモノサシ」、人間の考え•とらわれの世界を説いてくださっているのですね。

坐禅やお念仏を称えたりしていますと、迷いの中にありながら、悟りの世界をチラッと見ることができます。しかし煩悩具足の凡夫の私が完全に見えるようになるのは、きっと肉体が無くなった後でしょうね。


南無阿弥陀仏

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