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「南無」とは

皆さま、こんにちは。

この世は私たちの思い通りになりません。

「楽」がいいけど、「ラク」にはク(苦)が残ります。生きている限り人間は満たされないのです。そして思うままには生きられないのです。


それを知るには会社や大学とかでは難しいのです。なぜなら価値観や目指しているものがそもそも違うからです。

私たちは何を目指しているのか、豊かさに象徴されるものではないでしょうか。

確かにこれは誰もが追い求めていきますが、それを手にすることは容易くはありません。


なぜならこの世は[無常]であり、生命の保証がないからです。若いとか元気とかはまるで当てにはなりません。なるがままを生きていくのです。生きていけば生きる意味がおのずと知らされます。自分で自分の生命を裁いてはなりませんよね。それをしたら何でかかわからないままになってしまうからです。


それを明らかにされたのが仏教の教えであります。お釈迦さまが人生をかけて説法された意味を訪ねる機会を大事にしていただきたいと思います。自分勝手なものでは本質が見えません。だから仏教の教えを通して訪ねていくのです。


残念ながら人間には、自分に対しても他人に対しても、その生と死を支えていくほどの力は与えられてはいません。それなのに人間は、自分以外は当てにはならないと思い上がり、その上困ったら祈願をしたりして「楽」になろうとします。悲しみ深く、急がなくてもいいことにあたふたして、急がねばならないことには無頓智だったりするのです。


【南無】とは、「正信偈」には、【帰命】とも示されていますが、これは「依りどころにする」ということ、「順(したが)う」、信順すること。

帰命の「命」は仏さまからの命令であります。そして「教え」という意味でもあります。


つまりは【帰命】とは、仏さまの教命を信受して、み教えに依り、教えに順じて生きていく私の信心(他力)を表す言葉であります。


仏さまのお心は、(私アミダがあなたの人生の真のたよりとなっていくから、私をたよりにして生きていけ)であります。

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逆に、たよりにならないものをたよりになると思い誤ったあげく、結果、裏切られたと泣いたり絶望したりするような人生は生きるなよ。

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阿弥陀は、絶対にあなたを裏切らないぞ。


これこそが真実の教えであります。

阿弥陀の誓いが声となり力となりはたらいているのが南無阿弥陀仏であります。


【まかせよ、救う】


疑っているうちは、南無阿弥陀仏を聞いたり、南無阿弥陀仏を声にして称えたりすることはできません。もちろん「お腹の中で称えている」などあり得ません。受け入れたら必ず声(称名)になるおはたらきです。


他力の教えは良いことも悪いことも、嫌なことも辛いことも全部阿弥陀さまにお任せしていく教えであります。

そのことを踏まえて、お聴聞させていただきたいものですね。だから一回や二回聞いてわかるようなそんなものではありません。

私の頑固な気持ちから疑いがなくなっていくまで聞いてほしい。

その上で、南無阿弥陀仏を宝物として思えるようになるまで称えていただきたいと思います。


私は30年以上お念仏の日暮を重ねていますがなかなか難しいと感じます。

しかしそのまま阿弥陀さまは頑固な私を抱いていてくださいますよ。有難いですよ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

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