top of page
執筆者の写真超法寺の住職

「生前」じゃなく「死前」?

皆さま、おはようございます。

日差しが心地よい朝です。

静かな朝ですね。

しかし寒さが厳しいので体調を崩さないように気をつけていただきたいですね。


今月は一月の慌ただしさが嘘のようにいつもの?お暇な時間を過ごしています。

バブルな1か月を過ごしていますとまた不安ですが、これが現実なのですね。

確かに疲労が半端なく身体が悲鳴を上げていますので阿弥陀さまがメンテナンスしなさいよ、とおっしゃっておられる気がします。


私らしく生きる!

が私のモットーだから。

石原慎太郎さんの生前の姿を見て、良純さんとの親子の語らいは、私にはあり得ないことであり羨ましい気持ちがします。

ずっと、いいなぁ〜って思っているけど我が親子では無い世界です。

それぞれの親子にはそれぞれの世界がありますからね。


さて、皆さまは「生前」の意味をご存知ですか?

よくお葬式などで聞きますよね。

「生前はお世話になりました」

ある時、質問されたことがあります。


「ご住職、生前は、と言いますが前からおかしいと思っています。生きていたときだから、死前というのが正しいと思うけどどうなのでしょうか。」


これは仏法を聞いたことの無い人がモヤモヤするところじゃないでしょうか。


「あなたはお寺で法話を聞いたことありますか?」


「いいえ、ありません」


「なるほど、それではわからないでしょうね。あれは生前で正しいのですよ。だって浄土真宗では死んだとは言わないんですよ。白木の位牌にも〈往生〉と書いてあるじゃないですか。つまり、阿弥陀如来のご本願をいただいた方は阿弥陀如来の慈悲のはたらきによりお浄土に生まれていくのですから。つまり、仏さまに生まれる前だから、生前なのですよ。

往生も、仏さまに生まれていくこと。では死ぬとは何か、それは私の抱えている〈煩悩〉が死ぬのです。これは阿弥陀如来の慈悲の他力本願のはたらきによりさとりのいのちにならせていただくのです。そういう意味なのですよ。良い疑問を持ちましたね。これも仏縁です。大切にしてくださいね。」


「あ〜、そういうことなのですね。スッキリしました。これからはお寺で法話を聞きに行きますね笑」と言われましたが、参ることはありませんでした。


そう簡単には仏法を聞けないのが人間の悲しさです。

そう簡単には私の愚痴の口にお念仏はいただけません。

これでもか、これでもか、の阿弥陀如来のご本願に遇わせていただかねば難しいのです。


だから、学ぶのではありません。

〈慣れ〉が大切ですよ。

葬儀はするが法事はやらない、そんな方があまりに増えてきました。

これでは本当の救いを知ることはないでしょう。


『正信偈』には、親鸞聖人が阿弥陀さまは必ず救う!と言われましたが「死ねば仏」とはならない。ふた通りのお浄土を作られて地獄(自業苦)の生き方を好む私たちを摂め取るはたらきを持ってはたらき続けていると、おっしゃっています。

亡き大切な人にすぐ逢いたい、そんな人は阿弥陀さまの誓願におまかせしましょう。


南無阿弥陀仏の六字の中に全て込められていますから。


私たちがすべきことは、今日はもう二度とありません。

そのかけがえのない私の一日を、仏さまの教えの中に私の道を開いていくことが、安らかな人生、苦悩を超越していく確かな世界が南無阿弥陀仏であると知らされていただきたいですね。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

閲覧数:68回

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page