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「恩徳讃」のこころ

骨をくだいても報謝

 如来大悲の恩徳は

  身を粉にしても報ずべし

  師主知識の恩徳も 

  ほねをくだきても謝すべし


親鸞聖人のご和讃であり、仏教讃歌としても身近で法座の最後に唱和される皆さまに知られています。私は旧譜が好きです。何か親鸞聖人のご苦労が想いが込められて涙が出るようなお歌だからです。西では新譜、東では旧譜を歌いますが報恩講の時には旧譜を用いています。


覚えやすいのには理由がある。

日本人が覚えやすい七五調だからです。


阿弥陀如来が私にかけてくださる大いなる慈悲の恩徳は、この身を粉にしても報じなければならない。釈尊をはじめ七高僧など、如来の大悲を明らかにお示しくださった人々の恩徳も、骨をくだいても報謝しなければならない。


この世に人間としての生命を恵まれ、本願念仏[南無阿弥陀仏]に出遇えたということは、この私にとってどれほどの意味があるかといえば、このの身を粉にしても、骨をくだいても報謝しなければならないほどの大いなる恩徳(めぐみ)なのだと、親鸞聖人は自ら深くうなずかれ、全ての人々に語りかけておられるのです。


親鸞聖人は、本願念仏[南無阿弥陀仏]という真実の救いに出遇われた深い深い慶喜(よろこび)が溢れていますが、この和讃を口にするとき、「身を粉にしても、骨をくだいても報謝しよう」と、おっしゃられる親鸞聖人のお気持ちは、この素晴らしい教えに遇わせてくださった親鸞聖人への私たちの気持ちでなければならない、そんな気がするのです。


報恩講」という心ゆかしい行事を生み出された先人のお心も、浄土真宗が一番大切にしているこの行事に対する切なる思いを忘れずにいたいというものこそが、『恩徳讃』を歌い続けている大切な意味ではないだろうか。


の意味は本来はいつくしみ、めぐみを意味する言葉です。

例えば親の恩は、親のいつくしみを意味します。

物心つかない私にかけてくださった親のいつくしみに気づくところに、子が親に持ついつくしみがあり、それは感謝という形で表現されるので、報恩というのです。

はどこまでもいつくしみですから、子はまた自らが親になることにおいて、我が子へのいつくしみを持つことでもあるのです。


長い長い気の遠くなるほどの過去からかけられてきたいつくしみに感謝するということは、同時に未来を作っていく者へのいつくしみを持つことに他ならないことを心に刻み、「報恩講」にお参りしてみませんか。

超法寺では11月29日14時〜ご講師に、北海道帯広市より石田智秀師[本願寺派布教使、妙法寺住職]をお迎えしてお勤めいたします。どなたでもお参りできますので、是非ご一緒にお聴聞させていただきましょう。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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