『仏説無量寿経』には、
【善悪報応し、禍福相承く(かふくあいうく)】とあります。
これは善悪の報いによって、不幸や幸せを受けるということ。
[1000年前からある因果応報の詩]
「因果応報」は仏教の言葉ですが、中国の有名な詩人、白楽天(はくらくてん)が詩にしています。
白楽天は仏教熱心なことでも有名で、最初、弥勒菩薩のもとへ往生しようとしていましたが、晩年病気になると、極楽浄土を描かせて全ての人が阿弥陀如来の浄土へ往生できるよう願ったような人です。
その白楽天の残した「燕の詩」は、
このように非常に人の心をゆさぶるものです。
雄と雌の燕が、軒下に泥で巣を作り、4羽の雛を産みました。
日に日に育っていく雛たちは、エサを求めてピーチクパーチク鳴いています。
青虫をとってくるのは簡単ではなく、雛たちはどれだけでも食べたがります。
親鳥は、くちばしや爪が折れそうになっても、一心にエサをとってきます。
子供たちがお腹をすかせているので、30日の間に1000回も往来すると、母親は痩せて、子供たちは太っていきます。
親は子どもに言葉を教えて、気づくろいをします。ある日、羽ができたので、庭の枝の上に連れて行くと、子どもたちは風に乗って振り返ることなく四方へ飛び去っていきました。
驚いた両親は、空に向かって鳴きながら、声を枯らして呼びますが、子どもたちは帰りません。
親鳥は、空の巣に帰り夜通し嘆き悲しみました。
燕よ燕、悲しむことなかれ、自分自身を思い返してみなさい。
自分が雛だった時、同じように高く飛び立って、母に背いたのではありませんか。
その時の父母の思いを今日まさに知るのです。
これが燕の詩ですが、これを日本では五七五で、
【親捨てた 報いで子にも 捨てられる】
と、言います。
自分が親を捨てた報いで、自分も子どもに捨てられるということです。
これは「因果応報」のわかりやすい一例です。
[仏教の根幹]
因果の道理は、仏教の根幹です。
『中阿含経』にはこう説かれています。
【もし縁起を見ればすなわち法を見る。
もし法を見ればすなわち縁起を見る。】
縁起とは、因果の道理のことで「法」とは仏の説かれた大宇宙の真理のことです。
因果の道理を見るものは法を見るということは、因果の道理は、大宇宙の真理である、ということで、さらにパーリ仏典
少し難しくなってしまいましたね。
私たち人間は、頭で理解していても実践することはとても難しいです。
ましてや人間は自分の都合の良いように解釈をしてしまうものです。
善に励めば励むほど見えてくるのが【自惚れ心】です。
【慢】という煩悩です。
身体では善いことをしていても心の中はどうだろう。オレがオレがにはなっていないか、オレほど良く勉強したものはいない、仏教もよく理解していると自惚れる。
その心に、宗祖親鸞聖人は泣かれたとあります。
煩悩具足とはこのような姿なのです。
一生懸命、掃除に専念すると掃除をしていない者がだらしなく見えてきます。そして怒りの心が出てきます。
一生懸命、善に励むとオレがオレがの心が見えてくるのですね。
善に向かうと悪心が見えてくるのです。
私たちはやがて死んでいかねばなりません。
生きている今、次から次へと【苦難】【困難】【災難】【人難】に苛まれ(さいなまれ)、まさに【人生は苦なり】なのです。
⭕️この苦悩渦巻く人生、未来永遠に絶対の幸福に生かす大きな大船あり、と教えられたのがお釈迦さまであり親鸞聖人です。
どうして苦しみが絶えないのか。
親鸞聖人は、『正信偈』に、
【生死(しょうじ)輪転の家に還来することは決するに疑情を以て所止と為す】
とあります。
人間は家から離れて生きていけないように次から次へと苦しみがやってくるのは疑情(無明の闇)一つなのだ。と断言なされています。
⭕️この後生暗い心は、生きている今、阿弥陀如来のご本願によって救いとっていただく以外には私の救われる道は無いのだとお釈迦さまも親鸞聖人も教えられるのです。
阿弥陀如来のご本願と出遇えたとき、私の絶対「悪」が知らされるのです。
『教行信証』(信巻)に、
【すべての人間は無始よりこのかた、絶対助からぬ悪人なのだ】という意味をおっしゃっています。
阿弥陀如来のお救いに出遇えた人は、阿弥陀如来のお力によって、絶対助からない悪人が誰でもない私であったと気づかされていくのです。
❌凡夫(死ぬまで煩悩から離れられないもの)だから仕方がない。
南無阿弥陀仏を称えたから救われるのでも、死ねば仏でもございません。
そこを今こそ、きちんと聞いておきませんといずれ必ず泣いて人生を終えていくことになります。
お彼岸です。
お墓参りだけで済ませたら勿体無いです。
是非、仏法を聞かせていただきましょう。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
Comments