皆さま、こんばんは。
先程無事に帰院しました。
今日は250Km走りました。
横浜市から千葉市、そして入間市まで長い道のりでした。悲しみに触れ、この世の無常を改めて知らされました。無力な私は何を語るべきなのでしょうか。阿弥陀さまをこちらに置いて語れば語るほどそれが身に染みてきます。
「そのまま」聞いていく。
【聞其名号】(もんごみょうごう)
南無阿弥陀仏をそのまま聞いていく世界にこそ真実はあるのです。
それなのに、人はどうして自分の考えに阿弥陀さまやお釈迦さまを当てはめようとするのだろうか、私にはナンセンスでしたか感じられません。
【難信】(なんしん)
「南無阿弥陀仏を称えなさい」
皆さまもことあるたびにそう言われていませんか。でも南無阿弥陀仏を声に称えてみても私は何も変わらない。
変わるはずありません。だって私たちは命終わるまで【煩悩から離れられません凡夫です】。
だから、阿弥陀さまが【ご本願】をお立てくださったのですから。
南無阿弥陀仏を称えることで自分が変わろうとする。正確にいうと「変えようとする」のです。違いますか。
南無阿弥陀仏を称えることで、有難い気持ちになったり、楽になったり、熱いものを感じたとか、それによって自分の罪深さを知らされたとか、私の心が変わることを私が救われた証拠にしようとしています。
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つまりは、南無阿弥陀仏をたのみにするのではなく、お念仏を称える私を頼りにしているのですね。
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阿弥陀さまがお念仏を称える私を救ってくださると、私が思っている、信じていることを頼りにしていくのです。
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どうしてもここにはまり込んでしまう。
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どこまでも自分の心のできごとに押し込んでしまう。
【難信】とは、仏教を聞いて納得した、わかった、頷けた、心に響いた、ということを私の救いの「証」にしていくのです。
信じようとして信じるのですが、信じているつもりが実はまったく信じていなかったということです。
【果遂】(かすい)とは、【果遂せずは正覚(しょうがく)を取らじ」[第二十願]
果遂とは、果たし遂げるという意味がある。
必ず私を真実の世界に導き入れるんだ、ということで、第十八願には、「聞其名号(もんごみょうごう)、その名を聞きて」なのです.[その名号]とは、「すべての世界の数限りない仏さまが、みなことごとく我が名【南無阿弥陀仏】を称えると阿弥陀さまが誓われた南無阿弥陀仏のことです。
あ〜、何かまた難しいお話しになりましたね。
ごめんなさい。
でも、これは大切なことです。
ただお念仏を称えたらいいわけじゃないから。
お念仏を称えたから救われる、称えないから救われないなどという節操な話ではないのです.阿弥陀さまのおはたらきは時を超えて私たちが気づく前に既に南無阿弥陀仏と届けられてあるのです。
仏教では【無明の私】こそが最も救わねばならないのです。
その私のために仕上げられた宝こそが、南無阿弥陀仏であります。長いこと迷いの命を生き死にしてきた私がこの度ようやく阿弥陀さまにお遇いさせていただけたことで(南無阿弥陀仏を聞く私になれた)す。
だから【聞其名号】、これが名号を聞くということなのです。
阿弥陀さまは、私を呼ぶ南無阿弥陀仏を宇宙いっぱいに響き渡らせてくださいました。
それなのに私はそれを聞く耳を持てない。
だからこそ阿弥陀さまは、私のところに来て、私となって、南無阿弥陀仏と無明である私を呼ぶ。だから南無阿弥陀仏は、私そのものに名付けられた名前なのです。
それを呼んでくださる声を聞く。
これが第十八願のお救いであります。
明日もお手伝いでご葬儀へ参らせていただきます.また入間市にお住まいの方が超法寺へお参りくださいます。有難いことですね。
皆さま、どうぞおやすみを大切にお過ごしくださいませ。おやすみなさい。ナンマンダブツ
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