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仏教徒に「喪中」はない

皆さま、おはようございます。

今朝は寒いですね。これを繰り返すことで春になります。暑さ寒さも彼岸までというからあと少しですね。石川県の被災地の皆さまへお見舞い申し上げます。南無阿弥陀仏


さて浄土真宗の方から「喪中につき」の欠礼ハガキが届いています。昔からずっと違和感がありました。私は両親が亡くなった際には「喪中につき欠礼」のハガキを出しませんでした。

ですから何人かのご住職からわざわざお電話をいただきました。「末田君ごめんな。喪中だと知らなかったから年賀状を出してしまったよ」と。「ご住職、わざわざすみません。お気遣いありがとうございました」と申しました。


確かに悲しい新年を迎えますから「おめでとう」は控えますが、亡き人は【往生浄土】の道を歩まれたのですから厳密には【往生浄土おめでとうございます】だと思うのです。

ですからさすがにこちらから年賀状を出すことはしませんでしたが年賀状をいただいた方には「寒中見舞い」という形で出しました。

理想と現実の難しいところですね。

ここは日頃からの仏法聴聞がきちんとなされているかが問われてくるのではないでしょうか。


私たちお互いはなぜ「苦悩」をしているのか、それは【煩悩具足の凡夫】で、死ぬまで「欲」から離れることができず、悩み続けるからです。無常を生きるため、生まれたのに、生まれたということは、いつでも娑婆の縁が尽きたならば、若かろうが、元気だろうか、待ったなしに人生を終えていかねばなりません。

それなのに、「まだ若いのに」とか「あれほど元気だったのに」と悲しみ、「子どもさんがまだ幼いのにかわいそう」だとか苦悩します。

このありのままが理解できない。

また、阿弥陀さまにお遇いさせていただいたならば、その「苦悩の迷い」を離れ、阿弥陀さまの大慈悲心のはたらきで【往生浄土】の道を歩ませていただいて二度と輪廻転生しない仏にならせていただけるのに、それをよろこびことができないのですね。


さて「喪」とは、辞書には「死亡した人を追悼する礼。特に人の死後、その親族が一定期間、世を避けて家に籠り(こもり)、身を慎むこと」とあります。

日本古来の習俗や神道(しんとう)は、「死は穢れ(けがれ)」て見ますから、葬儀へ行きますと、清め塩が置いてあります(なぜか仏教の葬儀でも)


「喪」に対して、仏教では【中陰】(ちゅういん)という言葉を使います。(中有「ちゅうう」とも言います)

人が亡くなってから次の生を受けるまでの期間をそういいます。この世からあの世(どこよ)に行くまでの、間で死後四十九日間のことです。

これはチベットでもある思想です。

仏教がインドから日本に伝わるまでに、儒教や中国古来の習俗の影響を強く受けました。

人が死んだことを嫌って避ける意味で【忌】と言い、決められた日や年に法事を営むようになったのは中国からです。

インドでも仏教以前から、人間が生まれ変わる【輪廻転生】(りんねてんしょう)の思想がありました。お釈迦さまは、【人間として生まれてきたのは、そうした輪廻によって再び迷いの世界に生まれないように、この世限りで迷いを断ち切って、来世では悟りの国に生まれるためである】という教えを説かれました。

したがって【中陰】の考え方は、仏の教えを聞くようになるための手段として、後代になってから用いられたのでしょう。


さて仏教、特に浄土教の立場から仏を信じる人の息が絶えたなら、中陰の暗い期間を経験せずに、すぐに仏さまの力で浄土に生まれさせていただくので、【往生】(おうじょう)と言います。

ですから、お釈迦さまの教えを信じる人が、亡くなった人を「穢れている」(けがれ)と言って「喪に服す」というのはおかしくはないでしょうか。

あなたを大切に育ててくれたお母さん、お父さんが亡くなったら「穢れている」から塩で清めたいから「清め塩」をください•••••あなたはそう言えるのでしょうか。また、そう思ってしまうあなたもそのままに往生浄土の道を歩めるのでしょうか。

考えてみたいですよね。 「死ねば仏」という根拠の無い言葉だけ知識として知っていても、あなたの大切な親を「往生浄土の道をあゆむ人になられた」と言えず、【法名】も付けず、【俗名】のまま葬儀を済ませて、お仏壇には【阿弥陀如来】ではなく、位牌を置いて、位牌に、遺影に手を合わせている私がどうやって【往生浄土】するのでしょうか。【他力】のお救いとは「あなたが勝手に救う」じゃないのです。私の勝手な考えで故人は救われはしません。 親心を知らない子どもは哀れです。 是非、「喪」の本来の意味を知ることで、親心を知るあなたになっていただきたいと願うのです。もちろん故人さまがです。

南無阿弥陀仏の声を通して喚び通しにあなたをよんでおられますよ。親心を受け取って南無阿弥陀仏を声にして、その声を依り処として暗闇(煩悩)から【光】(仏さまの大慈悲心)を仰いで生きていきましょう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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