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執筆者の写真超法寺の住職

仏恩報謝の人になれ

皆さま、こんにちは。今日もいい天気に恵まれました。

昨夜は相談の電話が深夜にありましてなかなかの疲労度です。

人の人生の責任ある相談を受けると言うことは生半可なことではないのですね。

しかしながら私を信頼してくださっているので無闇には対応できません。

こういう依頼も受けれるようになったことは超法寺の寺院活動においてまた新たな

ことだと思います。また男性と女性ではモノの見方が全然違うのでそこも踏まえて

お話をしないといけませんので気も使います。


さて、浄土真宗のみ教えにおいては、【仏恩報謝】(ぶっとんおほうしゃ)を怠ってはなりません。そもそも人間は【凡夫】(ぼんぶ)と言って、死ぬまで煩悩から離れられないので悟りの命となることができません。それなのに「うちは浄土真宗だから」とか、「阿弥陀如来が救ってくれるから安心」とか、「死ねば仏」などという間違った受け止め方をしています。

【聞其名号】(もんごみょうごう)、南無阿弥陀仏を聞く人になっていくことが大切で、その南無阿弥陀仏の声を受け止めわが口に称えさせていただくことで救われることのない者が平等に救われる道が開けるのですね。

つまり、誰でも勝手に阿弥陀如来が救ってくれる訳ではありません。

そして何よりみ教えも聞かない、仏法も聴聞しない、お念仏も称えられない者をすぐに救う術はないのです。このような生き方の凡夫たる私が仏の道に遇うために仏縁を結んでいくことを故人が願い、その願いを受け止めていくことが大切です。


蓮如上人は「ご恩報謝の念仏とこころうべきなり」とおっしゃっておられます。

《仏法には まいらせ心わろし(悪) 是をして 御心に叶はんと 思ふ心なり 仏法のうへ(上)は 何事も報謝と 存すへきなり》(聞書135)


仏恩報謝であります。蓮如上人は強調されています。

仏教では仏に差し向ける回向心(えこうしん)というものはよくないものとされています。それなのに「仏にお願いする」「たのむ」(頼)ことを改めないのです。

仏心と凡夫の願いは合致せず、常に真反対なのですね。親心がわからないというか、分かろうともできないのでしょうか。ですから阿弥陀如来のお救いは常に先手のはたらきなのです。

仏教において如来の心に叶おうという参らせ心なのです。何事も参らせ心は悪くて、すべての如来のご恩に報いるという心でなさるべきであるということであります。


仏教にでは「報恩」、「感謝」あるいは「知恩」という言葉が使われますが、これをパーリ語では「カタンニュター」と言います。

なせれたことを知ること、という意味です。

【相手が私に対して何をなされたか、そのなされtsことを心に銘記して、いついつまでも忘れない】これが相手に対する恩返し、報恩になるという意味であります。


蓮如上人の場合は、阿弥陀如来が衆生の私に何をされたか。

すなわち、ご本願を立て、修行をして(法蔵菩薩)阿弥陀如来となられ、私ども凡夫(

死ぬまで煩悩から離れられない仏になれない存在)が仏になるお念仏の道を明らかにされました。自分勝手には往生などできません。

その阿弥陀如来の真実の心を知るということが、そのまま阿弥陀如来への報恩、感謝になる。つまり、「信心の人」になる。

念仏申す人になるということが阿弥陀如来に対する御恩報恩謝の道であると。

したがって他力の信心を得た上の【称名念仏】(しょうみょうねんぶつ)は【仏恩報謝】なのです。ここを強調しておられるのです。

全て、【他力のはたらき】なのだということであります。


《信のうえ(上)は 仏恩の称名 退転あるましき事なり.....自ら念仏の 申され候こそ

仏智の御もよほし 仏恩の称名なれと 仰事に候》(聞書178)


信心を得た上は、仏恩報謝の称名というものは、途中で止めたり、退いたりするはずのないものである。


また蓮如上人は、

《称名は いさみ(勇)の念仏なり 信のうへはうれしく(嬉)いさみて まうす(申)念仏なり》(聞書52)

と、こう申されていますが、信心を得た後の称名は、いそいそと称えるものということで、「退転あるまじき」の言葉と相通じるものがあります。


このような私にならせていただくことこそが亡き人のご恩に報いることであると気づいていただきたいのです。阿弥陀如来の親心に目覚めることには日頃からの仏法聴聞を欠かさないことが大切です。忘れる私ですからね。忘れると途端に不安になる私ですから。


大切にしてください。遇えない私に遇わせてくださった尊い方なのですから。

南無阿弥陀仏

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