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仏さまのおさとり

皆さま、おはようございます。

昨日は春の嵐が吹き荒れましたね、皆さまは飛ばされませんでしたか?軽自動車を運転されていた方はヒヤヒヤされたのではないでしょうか。街ではこの風の中、帽子をかぶり歩く人が帽子を飛ばされていました。もう少し考えたいものですね。人間は自分しか目に入らないから飛ばされた帽子しか見ていないので、車にぶつかりそうになっていたりしました。命をかける行為ではありませんからね。


また黄砂のような砂が舞い上がって視界が悪くなったりもしていました。車を降りると来るが砂まみれになってしまいましたよ。ま、代車だからいいですけどね。まだしばらくかかるのかな。今日は風も収まり、それでも寒くなりました。もう少しかかりますかね、桜は。

今咲いてもあっという間に散ってしまうでしょうね。


散る桜 残る桜も散る桜


無常でございます。人生は。

それなのに人間は、常に自分しか考えられません。自分も死にゆく命だというのに、なかなか「ありがとう」は言えても「さよなら」としか言えない。「またね」がなかなか言葉となりません。このように人間は、自と他をひとつの如くには見ることはできないのです。

自と他と分けて、どこどこまでも自分中心の、我執我欲(がしゅうがよく)の心で生きていきます。だから人間の世界は争いの絶えることがありません。


しかしながら仏さまは私たち人間とは真反対。

仏さまのおさとりを【自他一如】とあらわします。自は悟れる仏さま、他は一切衆生のことであります。仏さまは【あなたと私は一つですよ】と言われる。あなたの苦しみ(煩悩)を、自己の苦しみとし、あなたの迷いを自己の迷いと受け止めるのが仏さまです。


「如来一切の為に、つねに慈父母となりたまへり。まさに知るべし、もろもろの衆生はみなこれ如来の子なり」『涅槃経』


「釈迦は父なり弥陀は母となりたまへり」

「超日月光(ちょうにちがっこう)この身には、念仏三昧をしへしむ、十方の如来は衆生を一子(いっし)のごとく憐念(れんねん)す」

(親鸞聖人)


「母とその一子」仏さまの【一如】の心を伝えるたとえです。

近年では母子の関係性が変わってきたように感じますが、やはりこのような親子関係が、母の幸せがそのまま子の幸せとなるのではないかと私は思います。少なくとも我が母は、そのような人でした。

生きとし生けるものを、善人も悪人も、賢き者も愚か者も、男子も女子も、出家者も在家者も、すべての者も自分の一人子と見ていく、大慈悲の阿弥陀如来に救われていく教えが、浄土真宗(仏教)であります。


南無阿弥陀仏を親の喚び声と聞いていく、親の願いとうけとめていく。

仏さまが私に来てくださる、心配していてくださる、喚び続けていてくださる。

南無阿弥陀仏の声となって私に来ていてくださるのですよ。子や孫や有縁の人々を目覚めさせ、南無阿弥陀仏を称える身に育て、救うはたらきをしてくださっているのです。

我が親が我が子たる私を喚び続けておられるのに、黙ってお参りしている私ってどうですか?

何か違うって思いませんか?


きっと親なら、「お前、聞こえているなら返事くらいしろよ」って父なら言うはずですよ。

それなのに黙ってお参りするの?

疑っているんでしょ。お墓で眠っているから声を出して起こしたらいけないなどと。

そんな心配などいらないのですよ。


あなたが素直になってくれることが、父を母を親と呼ぶ姿が親は嬉しいのだから。

だから称えてごらんよ、南無阿弥陀仏。

遇う道はたったひとつしかありませんよ。

もう道は明らかにされ私に与えられているのですから。


今は春のお彼岸です。

【到彼岸】(とうひがん)の世界を訪ねてくださいませ。

南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

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