私にゃまだ早い
- 超法寺の住職
- 1 日前
- 読了時間: 3分
皆さまこんにちは。ゴールデンウィークも最終日ですね。いかがお過ごしでしょうか。
私は久しぶりにゆっくりしています。
ただ、あいにくの雨模様で外出するのも控えて久しぶりにブログを書いています。
さて今日は大分県宇佐市の田畑正久医師の患者さんとのお話をご紹介します。(元教師の患者)
診察室でのやりとり。「もう82歳ですから、少しは仏教の勉強をしませんか。」
「わしゃまだ早い」
「南無阿弥陀仏の意味がわかると、もうちょっと鷹揚(おうよう)に生きていけますよ。」
「訳わからん南無阿弥陀仏はいいとうないんや。」
「先生、浄土はどう思われますか。」
「浄土なんてどこにあるんだ、地図上にどこにもありゃせん。」
「先生、では明日はあると思いますか」
「そりゃ明日はありますよ」
「それでは先生、明日を見せてください」
そういうと先生は、キョトンとされている。
「先生、明日と浄土というのは非常によく似ているんですよ」
「明日というのは場所の概念じゃない。浄土もそうです。浄土とは迷いの目が覚めた時に開けてくる世界です。」
皆さま、このやりとりをどう思われましたか。
明日があると思えば、良き明日を迎えたいと思えばこそ、今日を精一杯生きて安心して眠りにつけるのですね。
お浄土とは、いつでもどこでも、すべての者に目覚めを促している真実の世界なのです。
その浄土のはたらきをお念仏としていただいている私の生まれ往く世界なのです。
お念仏の申される人は迷いのままに、浄土のおさとりにつながった身命(いのち)を、今生きているのです。今日とも明日とも知れない今出会っているのです。偶然なんかじゃありませんよ。
生まれ往く浄土のある人は、安心して「死」も受け入れていきます。
⚪︎妻でなく親でもなくて子に戻り 二人の娘正月に来る (平成20年2月4日 朝日新聞 秋田市 渡部栄子さん)
妻として夫につかえ、親として子どものためにと苦労する二人の娘。親元に帰れば、ただ親に甘えるばかりの子どもです。
自分のすべてを認め、そのままに受け入れてくれるのは、実の親だけです。
帰る親元がある人はしあわせです。
私にはもう帰る実家はございません。
「ただいま」と帰れる家は入間市だけ。
親がいた家はすでに「こんにちは、お邪魔します」になりました。寂しいですね。
それでも人生の旅を終えて、本当に安心して帰る世界のある人はしあわせですね。
皆さまには安心して帰る世界はございますか。
「まだ早い」ではありません。
「今夜かもしれないでしょう」
聞いておきましょう。
受け入れいきましょう。
素直になりましょう。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
※鷹揚とは、鷹が空を悠然と飛ぶように、小さなことに拘らず、ゆったりとしているさま。おっとりとして上品なさまのこと。
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