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「他力」とは何か

皆さま、こんにちは。

今日はウチの子たちのトリミング&グルーミングでした。おかげさまで綺麗にスッキリとしましたよ。柴犬の毛は半端なく抜けますのでね。

住職は自分で済ませるのでお代はかかりません。いつも看板犬として頑張ってくれているので身だしなみくらいきちんとしてあげねばと考えています。


さて「宗報」にて、住職が中央仏教学院本科でクラスメイトだった奈良県の陀安さんがご往生されたとありました。衷心よりお悔やみ申し上げます。もう30年以上昔の話ではありますが、やはり知人の往生は喜ばしいことではありますが寂しいものです。

しかしながらまたお遇いさせていただけますので、お浄土でお遇いしましょう。

南無阿弥陀仏


私たち浄土真宗のみ教えは、【他力本願】をただ聞き受けていくのみであります。

他力とは、ご本願の名のりを聞かしめる信心(もちろん阿弥陀如来の)のみで往生を得させるという阿弥陀如来以外には発想することのできなかった、超越的な仏道です。


【行】(ぎょう)を中心とする従来の自力の仏道ならば、どうしても修行者の行力によって格差が生じてしまいます。


しかし、願力成就のみ名を聞かせていただくのみならば、善悪、賢愚、男女、老少•••••いかなる者でも「これはできません」ということはあり得ません。

もし「できない」というなら、それは「できない」よりも、「しない」と救いを拒絶しているに他なりません。

このご本願に対する拒絶を【疑い】と言われたのです。


本願を信じるか疑うかによって、仏道の迷悟(めいご)が分判されるのみです。

それこそ万人を平等に歩ましめる、最も勝れた仏道というべきだったのです。


蓮如上人は、ご本願をお聞かせいただいたならば、自分自身の罪の深さを思い煩う必要はないと言われました。

なぜならば、自身の罪の深さを嘆くことは一見は殊勝のように思えるけれども、いかに罪深き身をも助けると言われた【ご本願】を、素直に聞かせていただいていない誤りがあると言われたのです。


ただし「罪のふかきことをばうちすてて••••」とは、決して罪悪を犯し続けてもよいということではありません。

阿弥陀如来のご本願を聞くとは、そのご本願を何よりも尊いものとして聞き受けることであり、依りどころとして生き抜くことです。

ですから、ご本願を信ずるとは、仏法に心がけてまじめに生きることでなければならないでしょう。


その仏さまが「罪」と教えてくださったことは、「罪をうちすてて」るとは何をしてもよいことではなく、できるだけ「罪」や「悪」を為さないように努力し、努力ができて罪悪を犯さずにすんだならば、「おかげさまで•••」と慚愧(ざんぎ)することなのです。


このように慚愧と報恩のなかを、よき緊張感をもって生きることのできる身を恵まれたことを、他力信心の救いと言われたのです。


『御文章』「男子も女人も」章


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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