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仏教は念仏である

仏法には、万(よろず)かなしきにも、かなはぬにつけても、なにごとにつけても、後生のたすかるべきことを思へば、よろこびおほきは仏恩(ぶっとん)なり。

       『蓮如上人御一代記聞書』


仏法のお育てをこうむっている者にとって、世間の万事について、悲しいことにつけ、また望みかなわぬことにつけ、すべて何事も、この思うままにならないという苦悩を通して、後生の助かるべき道は念仏であると思い知れば、まことに喜び多きもの、それは念仏である


私たちはお釈迦さまがおっしゃる【一切皆苦】の人生を歩む中、自分の思うままにしようとすることで苦悩していく煩悩の中に生きているのです。ならぬ世界に生きているのに、「長生きしたい」とか、「お金に不自由なく生きたい」とか、「自分の愛する人と別れたくない」とか、「大病を患いたくない」とか思い、悩み苦しんでいます。


蓮如上人は、四苦八苦の人生の営みの中で、思うままにならない人生をならぬまま生きていけるのは、我執を打ち砕く仏智の念仏に依るということを、「後生のたすかるべきこと」と仰せになりました。


我執があっても我執が妨げにならず、ですから思うままにしようとする我執がはたらかなくなるのも、仏智におまかせしていく念仏生活[称名念仏]のおかげであります。

このことを蓮如上人は、「よろこびおほきは仏恩なり」とおっしゃるのです。


お釈迦さまが苦悩の克服を目指して出家され、苦悩を超越した【苦滅】のさとりを開かれ、それを生涯をかけて説法され続けました。

またその後、七高僧さまは念仏が信心によるさとりの道であることを明らかになれました。

【仏教は念仏である】と親鸞聖人がお述べになられたのはこのことであります。


俳人、小林一茶さんは、「秋風や西方極楽浄土より、なむだ仏なむあみだ仏まんじゅさ花」と、詠んでいます。

これは紅蓮の炎にも似た曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が、目の前につきつけたように咲いているのを見て、参らせていただく西方極楽浄土に合掌したのであります。


もうすぐお彼岸ですね。

浄土真宗がなぜ【念仏往生の教え】なのかを、しっかりと聞いておきたいですね。

そうすることで人生を豊かに生きていくことができるのだから。

もう一度言います。人生は苦なり。

苦悩を離れていくことはできません。

それではどうすれば。

南無阿弥陀仏を称えながら、「私には丁度いい」と、言い聞かせながら今を生きていくのです。


それが一番ですよ。私はそう思いながら、正念場を生きていきます。最近は業者さまからの依頼が皆無になりました。また何があったのか、たまたまなのかはわかりません。それでももうあたふたしません。なるようになる、なるようにはなる。なったまんまを受け入れ念仏申しながら私は生きていきます。


それは阿弥陀さまと二人連れの人生だから安心であります。超法寺としてこの8年間必死になってやってきました。これ以上私が新たにやることはもうわかりません。


私の人生の目的は、【凡夫が仏になる道】をお伝えしていくことであります。


浅原才市さんは、「つみあれば、みだあり、みだにとられて、みだになるつみ、なみあみだぶつ」と、詠んでおられます。


これは仏教の本旨は何か、お念仏を申すとは何かということは、言葉や理論によってわかるというより、仏智を仰いでお念仏を申す生活を通して、自ずと会得していくものでしょう。

それこそがこの浅原才市さんのうたに込められているように私は感じました。


蓮如上人も、【凡夫が仏になる道は念仏である】とおっしゃってあ

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