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執筆者の写真超法寺の住職

当てにならない私の色眼鏡

皆さま、こんにちは。

今日は穏やかなお天気になりました。

お洗濯日和です。朝から主夫しています。


先程は築地本願寺さまから有り難いお電話をいただきました。

久しぶりに(本当に)法務代行制度の葬儀依頼をいただきました。2017以来のこと。

新年の最初が葬儀であります。

仕事納めも葬儀でしたから何とも有り難いですね。悲しみのご縁ですから喜んでしまうと不謹慎ではありますが、やはりお寺を切り盛りする立場とすればやはり頭が下がります。


今までは、私の住む地区は無い!と言われてきましたから余計に嬉しいことです。

精一杯の助法をしたいと思います。


さて、この度は人間の我執がいかに恐ろしいかをご紹介します。

今や日本で起きている犯罪の約65%が身内間で起きています。皆さまはご存じでしたか?

一番身近で安心できるはずの身内が【我執】により争い、いがみあい、傷つけあって、殺し合うのです。

それは、私たちは皆、自分ぐらい確かなものはないと思って生きているからです。

これを仏教では【我執】と言います。


「自分は正しい」、「お前が悪い」と夫婦がもめる。親子•兄弟が、兄妹がもめます。

昔から変わらず嫁と姑が仲が悪い。

「お前が悪い」と政治家がもめる。

世の中、争いが絶えませんね。


岸田総理という方は一人しかおられません。

安倍晋三さんも一人しかいません。

それぞれが、あるがままに理解されていれば、人々の評価も同じはずでしょうが、立派な総理大臣と思う人、まあまあと思う人、無能で思慮のない人だ、史上最低な総理大臣•••。

一人の人間の評価がなぜこれほどまでに異なるか、やはり私たちは自分だけは確かだと思い生きているからでしょう。


しかしながら本当に私は間違いないのでしょうか。

私たちは、そのままあるがままに物事を見ることはできません。

全てを、私の立場•都合、その私の損得•善悪•好き嫌いの色眼鏡をかけて見ているのです。


都合が変われば、あれほど仲良くしていたのに何事もなかったように音信不通となれますから。都合が変われば。

だからこそ、確かなものなど自分の中に見出そうとすればするほど苦悩の底に突き落とされてしまいがちであります。


私はおかげさまで、日々の私の我執の心にナンマンダブツと阿弥陀さまが宿ってくださり、メガネの濃い色を少しずつ、少しずつ薄めてくださってくださいます。


阿弥陀さまとご一緒の人生はどんな私が思い通りにならなくても大丈夫なのです。


確かな歩みを持ってくださいます。

今日も、私らしく生きていきたいですね。

南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ。

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