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JR八高線金子駅から歩いて
約3分です。
毎時上下2本以上あります。
お時間を合わせてお越しください。

お知らせ
人間の志願を満たす
『高僧和讃』 無碍光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜(じょうや)の闇(あん)を破し 衆生の志願をみてたまふ いよいよ年末のイベント、クリスマスを迎えます。 我が家は愛犬アマネ(彌)が八歳になりました。 早いですね、超法寺とともに歩んできたのです。 様々なことがありました。苦難を側で支えていてくれる貴重な存在です。 また先日はM1グランプリがありましたが我が家にはテレビというものがありませんので結果しか分かりませんでしたが、今までとは違って私のツボにはハマらなかったです。皆さんはめちゃくちゃ笑ったという投稿でしたがM1グランプリ歴代でこれほどしっくりこなかったのは私が老いたからでしょうか。 でも老いたものが見ても笑えてこそM 1じゃないのかと思うのですが。 このように笑いって大切なものだと思う。 笑顔と腹がよじれる笑いは健康の源です。 皆さまは一日一回は大笑いしているでしょうか? 仕事柄、怒ったりストレスを溜めているのなら余計に笑ってほしいものです。 私は笑顔と笑いを大切にしています。 初詣は「ご縁があるように」と五円を重ねていれるそ
超法寺報恩講のご案内
令和七(2025)年の報恩講は、北海道帯広市•妙法寺住職、本願寺派布教使の 石田智秀 師をお迎えして11月29日14時〜お勤めいたします。ご講師とは、全国布教同志会でご縁を結び、また住職が北海道常例線出講の際にも妙法寺へ参らせていただきました。 北海道開教区の皆さまのお聴聞される熱意が今のいるま布教所超法寺の原動力にもなっています。この度は遠方にも関わらずご出講いただけるとのことで今からお聴聞できるのを楽しみにしています。超法寺にはどなたでもお参りできますので、是非お参りくださいますようご案内いたします。南無阿弥陀仏
「恩徳讃」のこころ
骨をくだいても報謝 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし 親鸞聖人のご和讃であり、仏教讃歌としても身近で法座の最後に唱和される皆さまに知られています。私は旧譜が好きです。何か親鸞聖人のご苦労が想いが込められて涙が出るようなお歌だからです。西では新譜、東では旧譜を歌いますが報恩講の時には旧譜を用いています。 覚えやすいのには理由がある。 日本人が覚えやすい七五調だからです。 阿弥陀如来が私にかけてくださる大いなる慈悲の恩徳は、この身を粉にしても報じなければならない。釈尊をはじめ七高僧など、如来の大悲を明らかにお示しくださった人々の恩徳も、骨をくだいても報謝しなければならない。 この世に人間としての生命を恵まれ、本願念仏[南無阿弥陀仏]に出遇えたということは、この私にとってどれほどの意味があるかといえば、この 私 の身を粉にしても、骨をくだいても報謝しなければならないほどの大いなる恩徳(めぐみ)なのだと、親鸞聖人は自ら深くうなずかれ、全ての人々に語りかけておられるのです。...
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住職のブログ


どんなに格好つけてみても
宗祖親鸞聖人のご和讃、帖外和讃に「 悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なりゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる」 とあります。 若き時に某師の法話で初めて出遇った和讃です。 実にショックで、いかに自分が格好だけの袈裟を身につけ、偉そうに人前で仏法を語っていたのか、どこに真実があるのかないのか、それすらもわからずに周りからチヤホヤされて生きていたのかという現実を突きつけられた時に浄土真宗とは、親鸞聖人生きた世界とは何であったのかを考えさせられたのでした。 人生で初めて浄土真宗から離れて仏教とは何かを問う機会がありました。 もしも私が太平洋のど真ん中で船旅を満喫していた時、突如として大時化に遭い船が難破して・・・という例え話です。 まだ布教所を出す前に縁あって北海道での常例布教の仏縁がありました。 その時、フェリーで行ったのですが爆弾低気圧で大揺れでまともに船内を歩くことすらままならない。その時にはあのセウオール号(韓国のフェリー転覆事故)を思い出しました。きっと乗客はこのような苦痛だったのではないかと。 初めて船で死を覚悟したのが


六甲庵の思い出(神戸淡路大震災)
あの神戸淡路大震災の思い出が懐かしい。あの経験は東日本大震災の時に何をすべきかの経験にもなりました。もうすっかり復興されているのでしょうね。 お寺も、あの時いた子供達も大人になって、スタッフとして関わった人たちもそれぞれの場で活躍されているのでしょうね。私は歳だけ取った感じですが。 人生いろいろな経験をさせていただきました。無駄なことは何もないです。 それぞれ意味があるのです。たった一度の人生であります。良いことも悪いことも、嫌なことも過ぎてしまえば思い出であります。 南無阿弥陀仏の阿弥陀さまは常に私に寄り添い、「いつ、どこで、どのような形で人生を終えようとも、この人生は決して空しく終わらせない」とはたらいておられるのであります。 信心 とは、私が信じるものと思われがちですが私の信心は全く当てにならないのです。常にゆらゆら動き詰めです。ですから仏さまはこちらの信心は求めていません。 信じよとは、まかせよ救うという他力の願いが私にかけられているのです。これを他力本願というのです。信じよは信じさせる如来さまの願いの上に成り立っているのです。...


たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ
人生はやり直すことはできないけれども、見直すことはできます。 たった一度の人生であります。 どんなに後悔しても人生をやり直すことはできないのです。 皆さまはそれをよくわかって毎日を過ごしておられるでしょうか。 「たられば」は人生においてナンセンスであります。 動物が生きる姿に好感を得るのは、彼らが過去を振り返らず前だけを向いて必死に生きているからではないでしょうか。人間は過去に良い思い出があったりすると、その時に戻ったらとか思うものです。それでも、どうにもならないのです。 いいも悪いも、やってきたことはたとえ失敗だとしてもそれを抱えて生きていかねばなりません。 今日ある投稿を見ていたら『般若心経』は万能のお経だからという。 本当にそうなのでしょうか。確かに自力の世界では素晴らしいものでしょうが、この精神に生きることは現実には大変に難しい内容なのを意外と知らないのではないでしょうか。お経も短いし唱えやすいから親しまれているのですが、浄土真宗ではこのお経は用いません。 浄土真宗は自力で修行の道ではなく、阿弥陀仏のご本願におまかせしていく他力の道です。


冥福を祈らなくてもいい人生
青春時代にお茶の間で当たり前のように見ていた久米宏さんがお亡くなりなりました。ザ・ベストテンは毎週楽しみでした。大の広島ファンで優勝を逃して頭を坊主にする破天荒さ、番組最後には自身でビールを注いで一気飲み。 あっと驚く為五郎(昭和の人にしかわからないでしょうね) そんな素晴らしい彼が人生を終える最後に大好きだったサイダーをグイッと 飲んでお亡くなりになられたと奥様が明かしておられました。 まさに石原裕次郎さんの我が人生に悔いはないのようです。 私も死ねるように死んでいきたいですね。まだ悔いはたくさんあるでしょう。 それでも、なるべく悔いを少しでも少なくするために今日も一日頑張りました。 恩師からいただいた年賀状の言葉をご紹介します。 一緒に味わってみましょう。 正信偈のお言葉です。 一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華 (いっさいぜんまくぼんぶにん もんしんにょらいぐぜいがん ぶつごんこうだい しょうげっしゃ ぜにんみょうふんだりけ) 一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解の者(ひと)と 言(のたま)
