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JR八高線金子駅から歩いて
約3分です。
毎時上下2本以上あります。
お時間を合わせてお越しください。

お知らせ
超法寺報恩講のご案内
令和七(2025)年の報恩講は、北海道帯広市•妙法寺住職、本願寺派布教使の 石田智秀 師をお迎えして11月29日14時〜お勤めいたします。ご講師とは、全国布教同志会でご縁を結び、また住職が北海道常例線出講の際にも妙法寺へ参らせていただきました。 北海道開教区の皆さまのお聴聞される熱意が今のいるま布教所超法寺の原動力にもなっています。この度は遠方にも関わらずご出講いただけるとのことで今からお聴聞できるのを楽しみにしています。超法寺にはどなたでもお参りできますので、是非お参りくださいますようご案内いたします。南無阿弥陀仏
「恩徳讃」のこころ
骨をくだいても報謝 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし 親鸞聖人のご和讃であり、仏教讃歌としても身近で法座の最後に唱和される皆さまに知られています。私は旧譜が好きです。何か親鸞聖人のご苦労が想いが込められて涙が出るようなお歌だからです。西では新譜、東では旧譜を歌いますが報恩講の時には旧譜を用いています。 覚えやすいのには理由がある。 日本人が覚えやすい七五調だからです。 阿弥陀如来が私にかけてくださる大いなる慈悲の恩徳は、この身を粉にしても報じなければならない。釈尊をはじめ七高僧など、如来の大悲を明らかにお示しくださった人々の恩徳も、骨をくだいても報謝しなければならない。 この世に人間としての生命を恵まれ、本願念仏[南無阿弥陀仏]に出遇えたということは、この私にとってどれほどの意味があるかといえば、この 私 の身を粉にしても、骨をくだいても報謝しなければならないほどの大いなる恩徳(めぐみ)なのだと、親鸞聖人は自ら深くうなずかれ、全ての人々に語りかけておられるのです。...
エンディングノート書いてみませんか
明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは この世は無常です。この世が無常ということは、この私の人生が無常であるということであります。若いとか元気だとかはまったく関係ありません。 私が生きているのが偶然で、私が死ぬのがむしろ必然なのです。...
お知らせ
住職のブログ


ドライアイスにご注意を
最愛の人との別れは身を裂かれるほどの悲しみがあります。側に居た方がこの世の人で無くなることは、なかなか受け入れ難いもの。 しかしながら、命を終えたならば身体の活動が無くなりますから体温の維持もできずに朽ちていきます。 葬儀、火葬まで身体を保たせるためにドライアイスで凍らせています。 ドライアイスは二酸化炭素、冷気は低い場所に留まりますから、ご遺体に語りかけたり、棺の小窓を開けて長い時間過ごしますと危険です。 ここ二年で三人が命を落としています。 旅は道連れなどと言いますが意味が違います。 大切な人を見送ることも大切です。 そして亡き人がこの世に居てくださったことを語っていく人の存在も非常に大切だと思います。 浄土真宗のみ教えは、サヨナラのない世界を知ることです。最後の最後にサヨナラ〜での別れはとても寂しく思います。 『仏説阿弥陀経』には 倶会一処 とあり、阿弥陀如来を仰ぎ南無阿弥陀仏を称えて生きていく人生は「また再び遇う」喜びを知らされます。 つまり「またね〜」なのです。 亡き人は南無阿弥陀仏の声となり、私たちを常にお慈悲の光となって共に歩んでく


一人きげんで元気に生きよ
梟(ふくろう)の一人きげんや秋の暮 [小林一茶] 「一人きげん」とは、「ご機嫌であっても不機嫌であっても」ということです。 フクロウという鳥は、機嫌が良くても悪くても何ら変わらない。それが一人孤独であっても何にも気にしていないように見える。 しかし私たち人間は、常に他人の目ばかり気にして生きていないだろうか。 相手の気持ちを何も考えずに誹謗中傷をSNSに発信していないだろうか。 思ったことことをそのままインスタやX、Facebookに投稿しているのを拝見しますが、なかなか毒々しいので見させられている者からするとかなり不愉快な気分になっていることを考えたことがあるのだろうか。 昔からオブラートに包んでというが、そもそもオブラートの意味すらわかっていない気がする。だから他人を傷つけていても 正論 を盾にしている気がする。 「これを見た人がどう思うだろうか」 そんなことを考えることは大切ではないだろうか。他人の目を気にすることと、他人を知らず知らずのうちに傷つけていることに無頓着なのは違う気がします。 だからといって他人の目ばかり


末通りたる愛
わが妻子ほど不便なることなし。それを勧化せぬはあさましきことなり。宿善なくちからなし。わが身をひとつ勧化せぬものがあるべきか。 『蓮如上人御一代記聞書』 現代語訳 人は誰でも妻子ほど愛おしい者はない。 この愛おしい妻子を導いて信心得る身とさせないなら、実に嘆かわしいことである。 だが、教え導こうとしても、宿善がなかったら、不可能である。 およそ、他人を導くことは容易ではないとしても、まずもって自分自身を教え導かないでいてよかろうか。 浄土真宗の眼目は、【自信教人信】(自ら信じ、人に教えて信ぜしむ) もちろん信仰は個人の問題であり、真実の自己をいかに実現するかを探究するかにありますが、目指すべきは、「生かされて生きる」の自覚を知り、「世のため人のために尽くす」私の完成であります。 親鸞聖人夫妻が「 倶会一処」( ともに一処に会う)という、お浄土での再会を願われたのも、家庭における念仏生活の充実を大切にされ、常に仏智に抱かれて、おかげさまと喜び生き抜かれたからであります。 他力の信心を賜り、南無阿弥陀仏と念仏申す身となることも、それから


仏さまはどこにいるのですか?
安楽仏土の依正は 法蔵願力のなせるなり 天上天下にたぐひなし 大心力を帰命せよ 「浄土和讃」 一度もお寺にお参りしたこともなく、もちろん法話も聞いたことのないお母さんのお話です。病気で床に臥していた子どもさんが今にも亡くなりそうな時に、「仏さまが天国に連れて行ってくれるよ」と、曖昧な言葉わかけたそうです。 すると子どもさんは、「天国ってどこなの?仏さまってどこにいるの?」と言いました。お母さんは、「お仏壇の中にいる仏さまですよ。」 「だって、絵の仏さまがどうやって天国へ連れて行ってくれるの?」 答えを持っていないお母さんは急いで、信心深い人に話してもらおうと呼びに走ったが戻るともう子どもは事切れていました。 お母さんは、自分が無信心なために、可愛い我が子に往き先を見失わせてしまったことを深く後悔して、それからは熱心に仏法を求めるようになったそうです。 人は、往き先がわからないほど不安なことはありません。 それ何に若かったり、元気だったりしますと疎かになるものです。 皆様はどうでしょうか。 浄土真宗は他力本願の教えです。
