皆さま、こんにちは。今日は小雨の降る寒い日になりました。
わたしは連日、掃除と片付けに追われる毎日です。
引越しとなると全ての部屋の物を出さねばなりません。
整理整頓など皆無な子どもの私は常にこうやって生きております。
人間って長く生きているとどうして物が増えるのだろう。
今回もたくさん粗大ゴミや燃えるゴミとして出してはいるというのに、
どうにも物が減りません。特に事務書類はどうにもなりません。
捨てるに捨てられず保管が必要ですし、全部パソコンデータに保存しておくことも難しい。やっぱり文章として残さねばなりません。
また、千葉にいた時のものもまだたくさんあります。
なんでか。これは「執着」(しゅうじゃく)という煩悩ですね。
人間はあらゆるものに執着します。
皆さまもそうでしょう。
家を持てば家に執着して、車を持てば車に執着して、家族を持てば家族に執着、
あらゆるものに縛られ、常に引き摺り回されて生きているのです。
写真などは重たいし邪魔なものなのに捨てられないじゃないですか。
本人には大切でも他にはどうでもいいものってたくさんあると思います。
「明日ありと・・・」というのにも関わらず、面倒な生き物です。
私などおひとり様で生きているのに「捨てられない」
死んだらきょうだいたちが困るというのに。
私服はかなり処分して逆に困って買いに走ったりしている。
使い捨てでいいんでしょうね。
サイズも日々変わるし、本当に困ったものです。
親鸞聖人は煩悩について「煩というは身を煩わし(わずらわし)、悩というは心を
悩ます」と云われています。
我が身心を苦しめる心の動きが煩悩です。
結局、自分自身を苦しめるような心の動き、そんなものをも後生大事につかまえて
気づいたらそれに引きずり回されているのが私の姿であります。
でも、仏教は「欲」が悪いという教えではありません。
よく、「もうこの歳にもなれば欲などありません」と言われますがそうでしょうか?本音は違いますよね。ウソです。
ウソなんだから見栄を張って言わないほうがいいですよ。
それどころか年々、地位や名誉やお金や健康まで有ればあるほど嬉しいのが本音でしょう。ですから未だに詐欺に引っかかっていますよね。
サプリメントだって常備薬並みに飲んでいませんか?
人間である以上、欲がなくなることはないのです。
欲があるから元気が出るのです。もうちょっと生きたいという欲が元気にもなり、前向きにもなれるのでしょう。しかし、あまり「貪り」(むさぼり)になってはいけません。
仏教の教えは、「少欲知足」(しょうよくちそく)です。
どうですか?少欲ですか?足るを知っていますか?
現在の日本人のほとんどは「貪欲」(とんよく)の日暮らしをしています。
贅沢三昧でしょう。車も街のあちこちでレクサスを見かけます。
ミニバンもアルファードという高級車が幅を利かせ、我が物顔で走っています。
ベンツも一時期よりは減ったイメージですがお寺の駐車場には高級車が溢れていることもよく目にします。個人的には見せびらかしたいんだね、きっと。
そう思っています。だって妬みにもなる高級車で来なくてもいいんじゃないかと思うから。これもすでに妬みなんでしょうね。
もちろん着るもの、お寺さんなら袈裟も高級なものを身につけておられますもの。
それでも、誰もが羨むものであっても、そこにはきっと喜びなんてあるのかな?
持っても持っても、まだ欲しい。満足なんかできない。それが仏教でいう「少欲知足」ではないのでしょうか。
喜びを失った「いのち」を、仏さまの目から見たら、貧しい痩せ細った「いのち」です。どんなに体格がよくても、仏さまの目から見たら喜びのない「いのち」は骨皮筋右衛門(ほねかわすじえもん)です。
そうして下腹だけをふくらませているのです。その下腹につまっているのは「不足」だけ。不足だけを腹一杯に詰め込んで喜びを失っている姿を仏教では「餓鬼」(がき)と言うのです。
餓鬼とは死んでからの話では無く、私たちは死ぬ前から「餓鬼道」へ堕ちていくのです。油断していなかったですか?
そんなに甘いものではないのですよ。
仏教は死んでからのことだと思っていなかったですか?
そんなものを説いているのではありません。それは儒教の教えですよ。
悪いことをしたら地獄に堕ちるという教えではなく、間違わないように気をつけていても、「地獄に堕ちる」以外にはないお粗末な我が「いのち」の救われていく道を教えれくださったのが仏教であります。仏教は死んでからでは無く、死ぬ前から「地獄」に堕ちているそんな生き方をしているじゃないかと、今ここにある「いのち」のあり方を教えてくださっているのです。
そのような生き方を一生続けていっていいのでしょうか。
それなのに「死ねば仏」と自惚れて賢者のような間違った生き方をしているのが人間の有り様ではないでしょうか。煩悩の中にしか生きていけない私がどうやって「さとり」の境地に至るのでしょうか。
煩悩は死んだだけでは解放されませんし、煩悩を抱えたままにさとりに至ることもありません。
それを親鸞聖人は、「生死出ずべき道」(しょうじいずべきみち)、「往生極楽の道」を生涯をかけて私たちに教えてくださったのです。
先祖供養や精神修養の話を教えられたのではありません。ましてや自分自身の欲望を叶えるための現世利益でもありません。贅沢三昧を謳歌し堕落した人生を送るための免罪符がお念仏の生活ではないのです。親鸞聖人が九十年の生涯をかけて私たちに教えてくださったのは、こんなお粗末な状態からぬけだして本当に私が私の「いのち」を生きる人生が実現するのかを考えてくださったのです。
とても返すことのできない「恩」はお念仏の人生を歩みお浄土に生まれてこそのものではないかと私は思います。
南無阿弥陀仏