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執筆者の写真超法寺の住職

袈裟の心

皆さま、こんにちは。いかがお過ごしですか。

今日は半袖でも良いくらいの陽気になりました。しかし油断せずに。


さて、皆さまは浄土真宗の葬儀の際、お棺の上に何が置かれているか覚えていますか。

他宗では守り刀が置かれています。

浄土真宗では守り刀ではなく袈裟が掛けられています。(そうでないとおかしい)

どうでしたか。

死ねば仏とばかり聞かれますから、死んだ人は(浄土真宗ではあまり死んだとは言わずに往生されたと言う)仏さまになっておられるだろうと思われているのでしょうが、そうではありません。残された私たちが亡くなった人の行先がわからないのに亡くなった人が思いのままにはなることはないのではないでしょうか。


お救いになられるのは私ではなく阿弥陀如来の本願であられますから私が推し量ることはできませんが、親鸞聖人は、「報土(真実の浄土)往生多からず、化土(仮の浄土)往生少なからず」と、仰っておられます。

死ねば仏は、阿弥陀如来の願いをそのまま聞いて、南無阿弥陀仏を称えておまかせすることが出来た人が報土往生をさせていただけるのでしょう。


そうではなく、阿弥陀如来に背を向け、仏縁を結びご法事(何回忌)を勤めさせて(しない方もあるが)いただきながら南無阿弥陀仏を称えることのなかった人が自動的に往生することはないのですね。亡き人を思うならば南無阿弥陀仏を我が身にいただきお念仏を称える私にならせていただくことが大切なのです。

それなのに、それをいただけないし、喜べないのが【凡夫】の悲しさではないでしょうか。


遇うことを教えられたはずなのに、南無阿弥陀仏は我が耳に聞こえているのに我が身にいただくことが出来ずに「老い•病」にとらわれ続けた人生だったのでは、一体何のための人生だったのでしょうか。実に残念に思われます。

亡くなった人の命の往く先もわからずに、残された方がどうやって安心して生きていけるのでしょうか。ただ悲しむだけなら人間でなくてもできます。しかし無常を知り、阿弥陀如来のご本願の慈悲を知ることができるのは人間でしかできないのです。


その人間に生まれさせていただけたというのに、往生の道を知ることがないことは悔やんでも悔やみきれないです。

私たちを考える以上に阿弥陀如来の悲しみ(大悲)は深いのです。知ろうとしない、聞こうとしない、称えようともできない私を救わずば阿弥陀とならじ、とはたらき続けておられます。


【慈悲】とは、相手の身になること。


「罪悪の 凡夫わたしを そのままに 抱いて

悲しむ おや(母•仏)がおる」

「福田康正師」


親がいてくれたから私は生きてこれたのです。

親の願いが私をここまで育ててくれたのです。

それを私が知ろうが知るまいが常に親の願いが先でありますから安心なのです。

阿弥陀如来の慈悲心も、常に先です。

気づかない私を先にお見抜きくださり、先に動いていてくださるのです。

わからんまんま、はねつけれまんま、親は我が子の私を抱き取り包んでいてくださるのです。


仏心とは慈悲心です。


慈悲は愛とも表現されます。

私たちの愛は絶対ではなく、条件がありいつでもひっくり返り憎になります。

阿弥陀如来の慈悲(愛)は決してひっくり返ることはないのです。

その親心を我が親が我が親の人生を通して聞かん坊の私に少しずつ教えてくださるのでしょうか。南無阿弥陀仏の声を通しながら。

袈裟(仏)を棺に掛けるのは我が命の往く先を指し示しておられるのではないかと、私はいつも喜んでいます。(葬儀社さんありがとう)


そんなことを思いながら今日もお参りしました。南無阿弥陀仏

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