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自称[霊媒師]は仏でない

皆さま、こんばんは。

三連休はいかがでしたか。おかげさまで雪も降らずになかなか過ごしやすい一日でしたね。

雨には降られましたが、普段から肌がカサカサしていますので良い湿り気をいただけて喜んでいます。ものは考えようで良くも悪くもなるものです。

私たち浄土真宗のみ教えに遇わせていただくお互いは365日、阿弥陀さまとご一緒の日暮らしですからね、毎日が大吉であります。

これが真実の道でございます。

まだそう思えない方は、まだまだお聴聞が足らないのでしょうね。真摯に阿弥陀さまと向かいあっていただきたいですね。


さて最近、「くらしのマーケット」さんの【出張お坊さん】に登録するようになってからさまざまな葬儀、法事に加え、身の不安についてのご相談のお電話をいただく機会が大変増えました。嬉しいことに私の写メがとても安心感を持てているようで恥ずかしいような、それでも都市開教に従事している専従員としては最高の賛辞ではないかと思うのです。


私としましては、【浄土真宗本願寺派】の看板、【築地本願寺】の看板を掲げていますので、ええ加減なマヤカシに毅然と立ち向かうことが求められていると自負しております。

宗祖親鸞聖人が90年の境涯を【他力の信心】に生きてくださったみ教えを精一杯お伝えすることが私の使命でもあります。


形だけの浄土真宗などに皆さまが振り回されて苦しんでいくことや、マヤカシの邪教や名ばかりの仏教に遇うことで苦悩がより深くなることのないように努めていきたいと常々考えています。浄土真宗は【聞く宗教】と言います。

それでは何を聞くのでしょうか。

難しい言葉ですが、【仏の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて】と言います。

◎生起本末とは、【阿弥陀如来の名号のいわれ。仏願の生起とは、阿弥陀如来の本願を起こした理由です。自力では決して迷いから出ることができないというにの、自力で往生しようとしている衆生(いのち)を目覚めさせ救うために、この本願が起こされたのです。仏願の本末とは仏願の因果をいう意で、法蔵菩薩の発願修行を本(因)といい、その願行が満足し、悟りを成就し、名号となって十方衆生を済度しつつあることを末(果)と言います。→聞即信(もんそくしん)


ここを離れますと、仏さまの願いがわからなくなってしまいます。

私たち浄土真宗のお坊さんもやはり【人間】であります。苦悩の真っ只中に身を置いています。煩悩具足の凡夫(ぼんぶ)ですから、皆さまをみ教えに誘うことはできましても、回向することはできません。

他力の仏さま、阿弥陀如来さまは、【我にまかせよ、我が名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん】と、お誓いしてくださいます。

我が名とは【南無阿弥陀仏】です。


阿弥陀如来さまは、姿の仏さまではなく声の仏さまとなられました。

ですから、阿弥陀さまを我が身にいただきますと、愚痴を申す私の口から【南無阿弥陀仏】と、声となってくださいます。

これが阿弥陀さまのお救いを賜った証拠であります。この口からお念仏【南無阿弥陀仏】が出てくださらない方はまだ自分が頑張っている証拠です。【自力】では私たち人間は救われません。

修行をしても成し遂げて【悟り】を開くことがなければ⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎もうけです。


仏教では、仏教をお開きくだされたお釈迦さまがお亡くなりになられて1.500年とも2.000年とも言われる時期以降は、【仏の教えのみが存在して行じる者も、悟りに入る人がいなくなる】という【末法】(まっぽう)になると言われています。

最近では興味があるとお聞きしますので、少しご紹介します。


末法とは、【正法】(しょうぼう)、【像法】(ぞうぼう)の後に位置づけられている時期のことで、【三時】(さんじ)の一つです。

この三時の長さは諸説ありますが、一説には【正法1000年】、【像法1000年】、【末法10000年】とされ、多くはこの説をとっています。

【五百歳】

三時または五箇の五百歳は『大集経』に説かれています。

「大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上一千年、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」


⚪︎第一の五百歳 解脱堅固、インドにおいて迦葉[マハーカッサパ]、阿難[アーナンダ]等が小乗仏教を弘めた。


⚪︎第二の五百歳 禅定堅固、インドにおいて龍樹[ナーガールジュナ]、天親[ヴァスパンドゥ]等が大乗仏教を弘めた。


⚪︎第三の五百歳 読誦多聞堅固、仏教が東に流れて中国に渡り、経典の翻訳や読誦、講説等が盛んに行われた。天台大師[智顗](ちぎ)が『法華経』を弘めた。


⚪︎第四の五百歳 多造塔寺堅固、仏教が東に流れて日本に渡り、聖徳太子以来多くの寺塔が建てられた。伝教大師[最澄]が日本の仏教を統一し大乗戒壇を建てた。


⚪︎第五の五百歳 闘諍堅固、白法隠没、戦乱が激しくなり、釈迦の仏法が滅尽する。末法思想から鎌倉新仏教が起こった。


簡単に言うとこういう感じであります。

こうやって仏教は私たちに伝わってきたのです。


◎末法とは、お釈迦さま(仏)の在世から遠く隔たったため、教法が次第に微細になり、お坊さん(僧侶)が戒律を修めず[グルメになり、飲み歩き、高級袈裟を着飾り、高級外車を乗り回すような姿]、争いばかりを起こして邪見が蔓延り、お釈迦さまの仏教がその効力を無くしてしまう時期とされています。


つまり、形だけ修行しても悟りを開けない以上、身も心も仏とは程遠く、外見だけのお坊さんであるようなものということでしょうか。

そんなものを崇めたりするから世の中安穏にならず、仏法も弘まらないのです。

怪しい宗教が蔓延り、人々は嘆き苦しんで生きているのではないでしょうか。


世間の人は、悩みがあると悲しいかなお寺さんではなく占い師や祈祷師にお金を出して話を聞いてもらうようです。(私たち僧侶は信用がないのですかね)

その上で祈祷料などと称して多額の金銭を求められている。効果があったかの保証書もなく、問い詰めると、「あなたのその姿勢は地獄行きだ」と脅され、挙句には献金をさせられる。[某宗教団体のような]

これは今に始まったことではなく、有史以来ずっと人間世界にはあったことなのです。


お釈迦さまがお伝えくださった仏教は、誰もが安心して生きていける道をそれぞれに合う道を教えてくださいました。

【聞く宗教】というのは、そもそも仏教とはそのような教えだからであります。


私たち人間は、聞くことを怠り、答えばかりをすぐ知りたくなり、わからないとすぐ「こんなもの」とはねつけてしまうのです。

だからマヤカシにばかり気持ちを奪われてしまうのです。聞いてもわからない私が、どうしてしっかり納得できるまで聞かないのか。

人間は仏さまのお話を聞くのが嫌いだからだそうです。


某歌手の詩に、「信じる者しか救わないセコい神さま拝むよりは〜」と歌われているように、私たち人間は、信じるより常に疑っています。神仏よりも自分を信じて生きようとします。

でも、悲しいかな人間は生きようとする自身を見捨てていこうとする危うい存在でもあるのです。現に日本では年間約30000人もの人がいのちを捨てておられるのです。


このような生き方をする私がどうして仏さまを信じていけるのでしょうか。

【まかせよ、救う】と、南無阿弥陀仏と喚んでくださっていても、自分の殻に閉じこもってしか生きていけない私がどうやって仏さまを信じることができましょうか。

だから阿弥陀如来さまは、【先手の仏】となられました。

信じたらではなく、称えたらではなく、仏が先に動いてくださるのです。信じるじゃなくて、信じさせる、まかせられる私に仏さまが先にはたらいてくださるのです。

そして、救われていることがわからない私にきちんとわかるように【声】として教えていただきくださるのです。


それが【南無阿弥陀仏】【ナンマンダブツ】の声となって愚痴の私の口にあらわれてくださるのです。おまかせできたら、私の口から阿弥陀さまが出てくださいます。「心配するなよ、いつもお前と一緒にいるぞ。」と、南無阿弥陀仏の声となり、私になって宿っていてくださるのです。これが【他力の信心】であります。

何もわからなくてもいいのです。

わからない私を阿弥陀さまは全部ご理解くださって、私のために全部仕上げてくださっていますから。

聞いても聞いても忘れていく私を抱き止めて、ご一緒にいきてくださるのが阿弥陀さまという無二の仏さまであります。

地蔵菩薩も観音菩薩も皆、阿弥陀如来さまを讃えてくださいますから安心です。


一番危うい自分を頼りにしていたら心もとありません。阿弥陀如来さまとご一緒に生きていくのです。それこそが諸行無常の人間世界を生きていく一番間違いの無い生き方であります。

目を覚ましてくださいね。

マヤカシの邪教や、名ばかりの占い師、祈祷師は中身は私たちと同じ人間であります。

そこさえ間違わなければ、きっと自分の殻から飛び出していけるはずでありますよ。


私がそうなれたのですから、皆さまがそうなれないはずはありません。

私は愛犬の死を縁に死ぬ気で仏法聴聞して目が覚めました。何がきっかけになるかは人それぞれであります。

是非、仏法聴聞するひとになってくださいね。

お困りの際はいつでも超法寺にご相談を。

お待ちしておりますよ。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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