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執筆者の写真超法寺の住職

浄土真宗の本堂とご本尊

皆さま、こんにちは。今日は穏やかな日になりました。

超法寺は新規移転して少しずつですが落ち着きを見せつつあります。

ただ、荷物の仕分けや整理はほぼ手付かずであります。

ちょっと時間がかかりそうですが、一階の本堂はスッキリしています。

是非皆さまにはお参りいただきたいと思います。

ウチのおじいちゃんは17歳(人間では92歳)となりました。

比較的に元気に見えますが年相応に老いております。

ずっと一緒に歩んできました。彼には助けられてきました。

ペットとは言えない家族であり我が子であります。

笑顔に支えられて、笑顔に助けられてきました。

もういくほど生きてくれるでしょうか。

そう考えると身が震えるような気分になります。

でも、ずっと南無阿弥陀仏の声の中にいる子ですから阿弥陀さまの懐にいてくれています。何にもできない私をいつも見守ってくれています。


超法寺の歴史を一緒に歩んできました。

お寺とは【一面不同】(いつにして同じからず)と言います。

同じでなく相異していて、互いにその特徴を比較🟰比べるとよくわかる(了解)のです。これを【異面不分】(違っているが分けてしまうわけにはいかない)となっているのを、「因縁の在り方」というのです。

浄土真宗のお寺と他宗のお寺はどこが違っているか、先ずは本堂のご本尊が違います。

浄土真宗のご本尊は、【三種荘厳】のご本尊と言います。

一には南無阿弥陀仏の名号になってくださった【名号成就】のご本尊です。

二には【極楽世界のお支度をしてくださった】ご本尊です。

三には【私たち一人一人のための準備、支度が極楽世界にすでに完全に仕上がっている】完成されたご本尊です。

この三つの作用(おはたらき)をもってお参りする者に、相い向かいあってくださっているのが浄土真宗のお寺の、ご本堂のご本尊であります。


お釈迦さまは、南無阿弥陀仏の名号になられた阿弥陀さまについてお説教をされました。「 なもあみだぶつ」とお称えしながら毎日の生活をしなさいと、教えてくださいました。ではどうして南無阿弥陀仏とお称えするのでしょうか。

それは、阿弥陀さまのお智慧とお慈悲の作用(はたらき)が、私のところで作用しますが、どんなに苦しいことも、どんなに辛いことも、南無阿弥陀仏とお称えして受けていきますと、力強く受けれいかれます。

このおいわれを「喜び」を学ぶためには、どうしても浄土真宗のお寺のご本堂で三種荘厳のご本尊の前で学ぶ必要があるのです。これを【仏法聴聞】といいます。

浄土真宗の教えの基本は日頃からのお聴聞の繰り返しであります。

これを怠りますと、自分中心の偏見で阿弥陀さまを見ていくようになってしまいます。人間は自力では救われません。


なかなか人間はおまかせすることはできません。

どうしても自分の力に頼ってしまうものです。人間の知恵でははかりしれないのに、どうしても人間を頼りにしてしまうものです。だから詐欺に遭ったり苦悩してしまうのです。神仏にもお願いして何とかしたいと思うのでしょうが、自分勝手な人間の欲望を叶えてくださるものはございません。欲望を克服できないから苦悩を脱却できないのです。すればするほど苦悩の海に沈んでいくのです。

阿弥陀さまは、そんな私たちの姿をお見抜きくださったうえで、そのまま抱き止めて救う法を完成されたのです。煩悩具足のまま南無阿弥陀仏のおはたらきをもって救う仏さまになられたのです。頭を下げる人は多くおられますが、頭の下がる人は法に出遇った人しか下がらないのです。偉い人は下げません。だって下げるのは部下や偉くない人ですから。


山口県のスタンドバーのトイレにこう書いて貼ってありました。

「実ほどこうべを下げる稲穂かな」

お酒が入っていましたが私は色々と考えさせられました。

この度の超法寺に来られる阿弥陀如来像は島根県からお越しくださいます。

今からワクワクしています。これからの超法寺の歴史をご一緒くださる仏さまであります。まだ超法寺においでのない方、是非お参りください。

皆さまの菩提寺になれるように精進していきますよ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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