皆さま、こんにちは。駆け足で一日が過ぎていきます。
何も年末年始の準備ができずに右往左往しております。
一人って何役もこなさずにはいられないので大変です。
今週もあれこれと用事があり法務もいただいています。
まさに坊主が走る、師走であります。
年始のご挨拶は遅くなりそうですがご容赦ください。
さて、お念仏となり我が身に届くということは一体どのような
ことなのでしょうか。今年もこれを精一杯お取り継ぎしてきました。
なかなか皆様が受け取りやすい形でお伝えできたかなと思います。
「仏行を修する」という言葉があります。
これは念仏の行者になるということですが、皆さまは念仏の行者で
しょうか。
お仏事や葬儀の際にお焼香をされると思いますが、浄土真宗の作法は、
一度軽く頭を下げて、香をひとつまみし、いただかずに、そのまま香炉に
焚べます。その際、指はこすりません。その上で合掌(お念仏を声に称えて)礼拝(お礼)します。そして軽く頭を下げて・・・が作法です。
額にいただかないのは仏は人間の欲望を嫌いますから念など込める必要はないのです。まして仏教徒(念仏者)でなければ香を三度も焚べません。
三度するのは「仏・法・僧」に[帰依]するという思いからであります。
香を一度とは、香を(良い香りの煙たくない)仏にお供えするという意味です。
抹香は、安いものは煙たいというのが基本です。
よいものをお買い求めして安らぐ香りを充満させて安らいでいきましょう。
つまり、お焼香の香りは、阿弥陀如来から放たれた芳香であり、お念仏となって届いている阿弥陀如来の大悲のお心であると味わうことができます。
たとえ話です。
「強い悪臭を放つ伊蘭の木が生い茂る林があり、そこに妙なる香りを放つ小さな栴檀(せんだん)の木がたった一本生えたのです。するとその芳しい香りは広大な伊蘭の林全体に行き渡り、ことごとく悪臭を芳香に変えてしまったということです。」
この伊蘭林とは、私たちの内なる罪深い煩悩のことであり、栴檀と言うのは、阿弥陀如来の大悲心が込められたナンマンダブツのお念仏のことである。
(大意・『教行信証・行巻』)
このように私たち人間が起こすさまざまな不安やいかり、悲しみ、妬み、恨み、後悔
など、尽きることなく揺れ続ける心に、仏さまは芳しい香りとなって届いてくださり、安心と喜び、充実と希望、安堵感を与え続けてくださいます。
小さな栴檀の一本の木であっても、その香りは瞬く間に煩悩をそのまま包み込んで
慈悲の心に変えていくはたらきとなっているというたとえであります。
私たちが焼香をしている姿は、仏さまの大悲心を知らされお念仏の中に大丈夫、安心せよ、まかせよ、救う、という大きな願いが込められていると、そういう思いでいたいものですね。
親鸞聖人はご和讃に、
染香人(ぜんこうにん)のその身には、香気(こうけ)あるがごとくなり、
これをすなはちなづけてぞ、香光荘厳(こうこうしょうごん)と
まうすなる。
とおっしゃいます。
(仏の薫香に染まった念仏者の身には、よい香りが漂う。これを名づけるならば、
香り高き智慧の光で飾られた人という。)
むやみやたらと本を読み、修行僧の真似事をしたがるのが人間でありますが、「欲」を離れられない私たちには到底「さとり」など成し遂げることはできません。
それならばと、もうすでに仕上げられてある他力の法を我が身にいただいていくことが近道であります。
超法寺の由来は、『教行信証』の総序にあります、「超世希有の正法」の初めと終わりの二文字、「超」、「法」であります。
つまり、お念仏を喜ぶ人の集まりを大事にするお寺という意味であります。
今日も、色々ありますが、それぞれを縁にしてナンマンダブツとともに生きていきましょう。
ナンマンダブツ
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