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執筆者の写真超法寺の住職

しんどくても生きる

皆さま、こんばんは。

目が覚めてしまいました。

今日はまた体調が悪くて身体が言うことを聞いてくれませんでした。やることが山のようにあるのになぁ、いかん、いかん。

こんなことでは。

まだまだやるべきことがあるのだから。


しかしながら、ここ七年以上走り続けてきました。決して順風満帆ではなくむしろピンチピンチでありました。我ながら良くぞここまでやれてきたなぁというのが正直な感想です。

改めて皆さまはよく頑張っておられるなぁと感心するばかりであり、また私自身いかに何もできない人かを知らされるばかりであります。


まるで目に見えない何かに動かされてきたなぁと思うばかりです。

目に見えないそれとは何か。

やはり南無阿弥陀仏のおはたらきではなかったのでしょうか。

私たちは決して人生を力強くは生きれません。

弱い存在だと思いますよ。


日々さまざまなものに不安を感じ、苦悩ばかりでできたら[楽]に生きたいなどと考えてしまうものではないでしょうが、なかなかそうはならないものです。ただニュースを見ていてもそれはそれは恐ろしい事件が当たり前のように起きています。子どもが親を○し、元彼氏がまだまだ若い彼女を○す、そこには深い怒りと悲しみが渦巻いている。どうしてかけがえのない尊い命をそんなに簡単に奪ってしまえるのか私にはわからない。


私は私が大事。大事ならもちろん全ての人がそれぞれの命が大事なんだと思います。それなのにどうしてそんなことができるのか、どうにもわからない。

こんな恐ろしいことをするのはヒグマでもサメでもスズメバチでもマダニでもないよ、人間だけです。

人間とは恐ろしい。

私たちは[欲望]というもので生きています。

動物は[本能]でいきているのです。

似ているけどまったく違うものです。


欲望=煩悩具足=凡夫


凡夫とは、死ぬまで煩悩から離れられないものをいいます。

つまり死ぬまで心と身体を悩ませ続けるのです。いつも自分中心にものを考えて他者をぶった斬る、そんな危険な生き方になります。

某新興宗教もそんな人間の欲望のままに自分のために他者を怯えさせ、苦しませている。

そんなことでは【地獄】に堕ちる、などと献金というか布施[財施]をさせている。


昔から、地獄の沙汰も金次第などというが神仏がそんなものに左右するのだろうか。

ナンセンスな話だと私は思う。

さとりの世界はそんな貧相なところにはないのです。

どんなことをしても、すべての人々をしあわせにしたいと願い続ける存在であるからです。

自分のことより他者を案じ、他者のいのちを一番に考えられる存在が真実な悟りではないでしょうか。


それなら、私たちはただ命終わっても【地獄】以外には行くことはないのだろう。

だから、【死ねば仏】、そんな都合のよいものなんてあるはずはない。

それなのに私たち人間は、死んだら皆救われて仏になっているなどと安易に考えてはいないだろうか。

そんな簡単なものなら神仏など何のためにおられるねかわからないよね。

死ねばいいなら。

そんな人間の浅はかな煩悩に閉じこもるままては皆、【自業苦】にあり続けるのではないだろうか。


【地獄】はだれが作るのか。

閻魔さんでも鬼でもない。

私たち人間が自ら作り自らがそこへ堕ちていく。【地獄】という世界は、愚かな生き方をし続ける私たちを真実に目覚めさせ、南無阿弥陀仏におまかせしていくことを促しておられます。葬儀や法事は何のためかとは、その真実の法を私に知らしめるためではないだろうか。


それなのに私たち人間は、死んだ人のためにしてやっている程度にしか受け止めてはいないだろうか。

地球は自分を中心に動いているなどと、若い頃思っていたバカな私でありましたが、仏法に耳を傾けるようにならせていただく中に少しずつ、少しずつ、愚かな生き方であったと知らされました。


亡き母は、いつも私の身を案じてくださいました。何気なくいつもいてくれた母でした。

しかし、こうして見送らせていただいた中でどれほど心休まる最高の存在であったのか。


私はいつも親鸞聖人のご和讃、

「釈迦•弥陀は慈悲の父母、種々に善巧方便し、われらが無上の信心を、発起せしめたまへけり」[高僧和讃]


を、お味わいしています。皆さまはどのようにご両親を思っておられるかはわかりませんが、私はこの自分勝手な驕り、昂り、愚痴の私を仏法へ誘ってくださり愚かな[殻]から出ることを勧めてくれたまるでお釈迦さまのような、阿弥陀さまのような存在ではなかったと思うのです。


私は常に弱い生き方をしているから、不安ばかりに苛まれています。バツイチの子なしだからね、頼るべき存在が皆さまに比べたら脆弱だと思います。ピンチの度に[殻]に閉じこもる選択をしてしまうのです。

それを南無阿弥陀仏のおはたらきが、「大丈夫だよ、阿弥陀如来にまかせなさいよ」と、あたたかく優しくはたらいていてくださいます。


そもそも、ええ加減な私。

典型的なO型気質です。

「ま、いいか」と受け止める。


どんなに不安になろうとも、阿弥陀さまが、私なりにちょうどよくしてくださいます。

決して私の都合に沿ってはならないけど、ちゃんとしつらえていてくださいます。

せっかく人間に生まれさせていただけたのに、そんなこともわからない生き方なんて情け無いし恥ずかしい。


「あなたも仏さまになる人です。ご一緒にお念仏申させていただきましょうよ。南無阿弥陀仏」


これが人間に生まれてきた者のすべきことだと思うのです。


【愚者になりて往生す】


自らの地獄行きに目覚めてこそ、阿弥陀さまの誓い、願いに頭が下がるのではないでしょうか。


そんなことを思いながら、初老の私は老体を奮い立たせてこれからも生きていきたい。

だってお父さんがお母さんがくださった尊いこの命だもんね。

それくらいしかご恩報謝なんてできやしないもの。


超法寺丸は風(阿弥陀)の吹くままに身をまかせて歩んでいくのです。

ご一緒にいかがですか。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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