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邪魔くさくって•••

皆さま、こんにちは。

雪予報でありましたが結局また雨になりました。冷たい雨が降ります。

春の訪れには大事なアイテムであります。

連休最後の日は静かに過ごしたいですね。


さて先日の安穏法話会に新たなお参りがございました。住職もお参りくださった方々も一同に大喜びでありました。この方は久しぶりの女性で、超法寺のご近所の方です。あまり東町からお参りがありませんので最終地の選択が出来なかったのですが有難いですね。


今までは所沢の昌平寺さまでご縁を結ばれていたそうです。超法寺が入間に来るまでは昌平寺さまがお出ましくだされたので結構おられます。ちなみに四軒隣の方も昌平寺でご縁を結ばれているそうです。

色々疑問をお持ちでたくさんお話いたしました。ご主人が宮崎県えびの市のご出身だそうで敬虔な門徒だったそうです。ご本人は真言宗だそうです。教えは違いますが阿弥陀さまは浄土真宗の方をお救いくださる仏さまではありません。死ぬまで煩悩から離れらない【凡夫】(ぼんぶ)をお救いのど真ん中にしてくださいます。


凡夫とは、常に自分中心にしか考えることができません。ですから阿弥陀さまのお救いも驚きを持つことができません。たくさんの語らいの中でお伝えしましたが、しまいには「邪魔くさい」、「面倒くさい」、「仏はほっとけ」といいますから放っておいてもいいんですよね。

そう仰るのです。


皆さまはどう思われますか?

私は別に文句を言うつもりはありません。

一度聞いただけで理解できるほど仏教は簡単ではありませんから。


渡邉尚爾さまは、『籠耳』

聞いて忘れて 忘れて聞いて

わたしゃ籠耳

お慈悲の水に今日も一日ざぶりと浸かり

ご恩よろこぶ しあわせ者よ

とお詠みくださります。


『籠耳』とは今で言えば【ザル】です。

皆さまは、ザルを水で一杯にするにはどうすればいいと思われますか?

ザルに水をザーザーかけてもみな溜まらずに抜けてしまいますよね。

ではどうすればザルを水でいっぱいにすることができるでしょうか。

主婦なら簡単ですよね。

ザルに水をザーザーかけるのではなく、水を張ったところにザルを浸せばザルは水でいっぱいになります。


さて渡邉さまはどうしてこのように仰ったのでしょうか。ザルが私の耳です。(都合の良いものしか聞かない。聞いても忘れる)

水が阿弥陀さまのお慈悲(救わずにはおれないご本願)であります。素晴らしいお味わいであります。私が敬愛する三重県の布教使、加藤さまが常々お取次ぎくださる詩であります。

毎年のように築地本願寺の常例布教にご出講くださいますが最近はお見かけしませんが来ておいででしょうか。


最近では「親」をたとえにしてもなかなかご理解いただくことが難しくなったような気がします。それほど親心の捉え方、感じ方が変わってしまったのでしょうか。寂しいですね。

親は、常に子どもより先に動いてくださいましす。頼まれる前から動いていてくださいます。

頼まれてからするのなら家政婦さんでも用事が済みます。しかし、親なればこそ我が子のためと無償の愛を注いでくださるのではないでしょうか。これも違うと言われたことがあります。


私と同世代の方にも、「生まれてきたくなかった」とか、「我が子が憎まれ口ばかり言って産まなきゃ良かった」などと愚痴を言われる方があります。一定数そういう方もいらっしゃるのでしょうね。そう思えば私は圧倒的にしあわせであります。

「生まれてきて良かった」、「お母さんの子どもに生まれてしあわせだった」と心から思える私だからです。


親は子どもを産んだから親になったのではありません。勘違いしている方は意外に多い。

親は我が子に願いをかけ、その親心が我が子に届いた時に「親」(母)にならせていただくのです。だからこそ、子どもはいつ何時でも「母」を呼ぶのです。「お母さん」「ママ」と、いつまでも呼んでくれないのに、泣きながらでも「お母さん」「ママ〜」って呼んでくれる子どもに愛情を持てないのなら、それは親の愛情が後退したとでも言うのかも知れませんね。


「お母さん」「ママ〜」って泣きながらでも呼んでくれる時に親をしないで、自分の都合が良くなったら親をしようとしたってダメですよ。

そこがわからないから阿弥陀さまの親心が理解できないのかも知れませんね。


人間は、あまりに満たされると喜びを感じにくくなるそうです。

当たり前のように結婚して、子どもにも恵まれ、子どもたちも普通に成長し、進学し就職し、また結婚し、子ども(親からすれば孫)にも恵まれ、健康に過ごしていれば何に不満が出ましょうか。それが普通であるのに、どうして私が死んだら地獄になど行くのだろうかなんて予想もしませんよね。

だから「仏はほっとけ」とか「死ねば仏」などと有り得ないことを真実だと理解してしまうのでしょうね。

阿弥陀さまは他の仏さまとは違います。他力の仏さまですがら、私は余計なことをしないで全部おまかせすればいい。それを「ほっとけ」と言われたのです。人間が考える浅はかな「ほっとけ」とは意味が違うのです。

また、「死ねば仏」も同じく、死にさえすれば誰もが「仏」になるという意味ではありません。「弥陀の本願を信じ、念仏申さば仏になる」を、勘違いして自分の都合で「死ねば仏」という言葉を作り、それがあたかも正しいかのように理解しているだけであります。

いかに人間の煩悩が深いかを痛感します。

【自業苦】(じごく)の苦しみは人間にはとても理解できないです。

都合でお仏壇を購入したりしなかったり、(もちろん意味などわかっていない)自分が匂いが嫌いだからとお線香(焼香)を焚かない。

面倒くさいからお花も生ずに造花をする。(もちろん浄土真宗では造花は用いません)

礼拝の対象は地獄行きの私を南無阿弥陀仏一つで必ずお救いくださる【ご本尊】阿弥陀如来だというのに、位牌や写真に手を合わせていたりする。

※【ご本尊】とは、「もっとも尊い」ものだと理解している方がどれほどおられるでしょうか。

浄土真宗では、西本願寺や築地本願寺で購入します。(お仏壇屋さんでは○○○○尊いには程遠い阿弥陀如来像しか売っていません)


たとえれば、皆さまは最高の宝石を何処で買われますか?まさかゲームセンターのガチャガチャで買いませんよね?最高の宝石屋さんで買われますよね?極端な例えではありますがそういうことです。

本当の正真正銘の浄土真宗の作法でやるならば、最高のやり方でやるべきでしょう。


面倒くさいとか、邪魔くさいとか、仏法を大切にし、仏さまを大切にされる方ならばそのような言葉も使うことはないと思います。

誰のため?人のため?違いますよね。

浄土真宗では、【仏恩報謝】(ぶっとんほうしゃ)と蓮如上人は常々仰っておられます。

ただの有難うではないのです。

都合が悪かったら、感じで書かなきゃいいなどと開き直る姿勢は亡き人を尊い人と思ってはいない、そんな気が私はします。


そもそも一番尊くない煩悩具足の凡夫たる私が阿弥陀如来の大慈悲心【南無阿弥陀仏】のおはたらきで、最も尊い阿弥陀さまと、親鸞聖人と、蓮如上人と同じお悟りの仏さまにならせていただくこと、これば最高の喜びとならないなんていかに煩悩具足の凡夫が罪悪深重であるかを思い知らされます。


私はおかげさまで南無阿弥陀仏を口にいただく身にならせていただきましたが、それでも煩悩具足の凡夫でありますから、やはり腹もたちます、愚痴も出ます、他者の悪口も言います。お恥ずかしい私であります。それでもそれでもと、常に阿弥陀さまは、ご先祖さまは南無阿弥陀仏を声となり届け続けておられるのですね。


勿体ないですね。

頭が下がります。

忘れといい。あなたが忘れても、あなたを決して忘れない阿弥陀がいるからね。

そう願い続け、喚び続け、はたらき詰めの仏さまのおはたらきがあるのです。


わからないまんま、しらないまんま、今までお寺参りを知らずに生きてきたこの私をお寺に足を運ばせた力が【他力】なのであります。

この度、超法寺へ初めて足を運んでくださった方を運ばせたのは他ならぬ亡きご主人ではなかったのでしょうね。私はそう思いました。

逢えるご縁を結ばせていただき有難うございました。またがあればまた嬉しい。

なければまたはお浄土にて。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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