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迷いの身に気づかされる

皆さま、こんばんは。

連休最終日は雪は降りませんでしたが、肌寒い一日でした。お天気はとても良く有り難い思いでありました。


慌ただしく過ぎ去る毎日ですが、思いを寄せながらもその思いを持ち続けることはなかなか‪難しいものでありますね。


道に迷うことがありますと、途端に冷静さを見失い時間との闘いが始まります。「まずい、まずい、遅れてしまう」などと気ばかり焦ってしまい集中力が緩慢になります。

こういうことが一番良くないのに。


なるようにはなるものです。

間に合う時はそうなるし、間に合わない時はやはりそうなる。そうなったまんましか生きられない私なのに冷静さを見失ってしまうのが愚かであります。

私の場合はおかげさまでギリギリになりました。ご家族が優しく迎えてくださいましたので安堵しました。申し訳ありませんでした。


このように道に迷ったならば、それなりに対処はできるものですが、いざ私の人生に迷ったときは一体どうすればいいのでしょうか。

ナビで教えてくれますか?警察が教えてくれますか?はたまた。

私は常々、【親さまにたのめ】といただきます。我が親が、我が親のような親となられた阿弥陀さまの仰せを聞かせていただきます。


どんなことがあっても決してあなたを迷わせはしないぞ。必ず私の国(浄土)に生まれさせて二度と煩悩に苦悩しない、そして輪廻転生しないさとりのいのちにするよ、だからまかせてくれと南無阿弥陀仏の声のはたらきとなって、喚び続けていてくださいます。

私が忘れても、私を決して忘れない親がいてくださいます。親が居る安心感はどんなことがあっても見捨てない大きな安心感であります。


確かに生前は厳しかったかも知れませんが、それは親なればこその姿(我が父は最後まで厳しかった。きっと最後まで心配だったのでしょうね)ではなかったのでしょう。

笑顔は人をしあわせにします。

笑って生きることのよろこびは、「今」既に救われている安心感があればこそではないでしょうか。

南無阿弥陀仏を口に声に出して称えさせていただくと、我が親が私に寄り添っていてくださるように感じられます。あの人もこの人も諸仏のはたらきとなって私に寄り添っていてくださるのです。「あなたの人生をいきてくれ」と、南無阿弥陀仏の声となり支えていてくださるのです。


私が生前ご縁を結ばせていただいた方々は私にとっても親のような方々ではなかったと思っています。身内と同じくらいの深い仏縁によってこそお遇いさせていただけた大切な方であります。たまたま偶然にはお遇いすることのできるようなものではありません。

そのことをいつも感じながらご法事をお勤めさせていただいています。


前回はお父さまが最後まで私をお見送りくださいました。今回は息子さんやご家族が見送ってくださいました。何か嬉しいことでした。

またがあるかどうかはわからないが、出遇えたからはもうお浄土までご一緒させていただける方々であります。

その素晴らしい仏縁を故人が身をかけてお伝えしてくだされたのです。これを素晴らしいと言わずにどうしますか。


浄土真宗において「他力」ということは、あくまでも【弥陀の浄土への往生においては本願のはたらきを根拠とする以外に道はない】、つまり「自力」では往生はできないということを明らかにしているのです。

私たちが阿弥陀さまから何を賜るのかは【他力の信心】を賜るのです。


【ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし】であります。


我が親からは「親」を知らされ、「子」としての安心感の中に生きる術を賜りました。

その中で、生きる厳しさを学び、親の人生を通して、私が生きていくことはどういうことなのかを教えていただくのです。


浄土真宗は、「生きる」ということを「生死(しょうじ)」の問題として捉えてきた教えであります。

↓↓↓

【生死の闇の深さに気づかされる教え】

私の闇を知らずに生きることの危うさを知らされていくのです。

どうやって生きていけばいいのかがわからない私に【往生浄土】の道を歩んでくれとの願いが一番身近な存在の我が親から知らされるのです。何気なく聞いていた南無阿弥陀仏の声は

悲しみの私に寄り添ってくださり、生き方はどうあっても地獄行きでしかなくとも、阿弥陀の大慈悲心のはたらきにより往生浄土の道を歩ませていただくことを知らされるのです。


【光】は、私の闇をそのまま包み込んでいくはたらきであります。

「讃仏偈」の意訳には、

ひかりかがやく かおばせよ

みいずかしこく きわもなし

ほのおともえてあきらけく

ひとしきものの なかりける


月日のひかり かげかくし

たからの玉の かがやきも

みなことごとく おおわれて

さながら 墨のごとくなり


世自在王の おんすがた

世に超えまして たぐいなく

さとりのみこと 高らかに

あまねく十方(よも)に ひびくなり


仏教讃歌として歌われています。

讃仏偈は、法蔵菩薩(阿弥陀仏)がお師匠である世自在王仏を誉め讃えつつ、自分もこのような仏になりたいと願って諸仏の証明を求めた(偈)であります。

その願いは、【私たちを救うためであれば、どんな苦労をしたとてかまわない。】

そうやって気の遠くなる時間を費やして南無阿弥陀仏を完成され、阿弥陀仏となられました。

昨日今日でできた願いではないのです。


なぜそれほどまでして仕上げられたのか、それは私たちの煩悩(欲)の闇が深いからなのです。神や諸仏が見捨てられた存在であるこの私、自分の力では決して悟りに至ることができない、つまり地獄行きの生き方であるのに、それにすら気づくことなく「死ねば仏」などと自惚れて生きるしか術のない衆生(いのち)なのです。

つまり法蔵菩薩さまは、自分のためではなく、この地獄行きの生き方をするしかできない私を救わんがためだけに仏(阿弥陀仏)になられたのであります。


それを教えてくれたのは我が親であります。

本当のしあわせを知らしめるために我が親として私の前に現れてくださったのではないかと私はいただいています。

有り難いです。南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・


お父さん、南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・


お母さん、南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・


死者として弔うのではなく、悟りの仏さまとしてお念仏を称えて喜んでいきたいものですね。

ナンマンダブツ

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