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輝いて生きる

寒くなりましたね。凍えそうです。

やばい、灯油が切れてしまいました。

今夜は毛布にくるまって寝ますか。

さて皆さまは毎日輝いた人生をお過ごしでしょうか。

人生を生きるとは、なかなか大変です。

平坦ばかりではありません。

「色々あるのです」

諸行無常の世界は常に移り変わります。

一瞬たりとも立ち止まることを許されません。


昔から人生50年と言われますが、今や100年時代と皆さまはお喜びでしょうか。

要は死ねなくなってきたのです。

元気でいつまでも過ごすことを望んでも、なかなかそうならずに、でも生き続けることはある世の中になりました。

医療の進歩、サプリメントの充実、さまざまな要因でまさに死ぬことがある意味難しくなってきたのでは無いでしょうか。

例えば近年では手術をしてもすぐにリハビリをさせられたりして長く入院をさせてくれないようです。

また、老いとの戦いは一生続いていきます。

長生きすれば懐かしい人がいなくなります。

また愛する人とも別れていかねばなりません。

反面、憎しみあうものとも出会い、避けてはいけません。つまりは思い通りにはならない。


しかしながら、どんなに注意深くして生きていても必ず命を終えていかねばなりません。仏教とは、病を患っていても、老いの身であろうとも、私がどのような状況にあろうとも精一杯輝いて生きるいのちのあり方を教えてくださっています。


親鸞聖人はご和讃に、

「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」と言われています。


硬い氷は温もりがなければ、いつまでも氷のままですが、温もりとなってはたらいてくださる阿弥陀さまの智慧の光に照らされて、氷が水になるように、私の煩悩も阿弥陀さまの智慧のおはたらきによって、はかりしれない功徳へと転じてくださる阿弥陀さまのおさたらきを讃嘆されておられます。


日々の暮らしが当たり前のように過ぎている時は【順縁】、私たちは仏さまの教えを聞こうとはしません。聞いても真摯さが欠けてしまいます。

しかしながら、人生を生きていくなかでさまざまな苦しみ、悲しみに出遇わねばなりません。【逆縁】

その苦しみ悲しみに出会った時、私自身の受け止め方で、空しい繰り言の人生になってしまうのか、かけがえのない人生になるかが決まります。「死ねば仏」と油断できるのは阿弥陀さまと出遇った人だけですよ。阿弥陀さまと出遇わず、ナンマンダブツを声に称えることのない人にはそうなれるものはないのです。つまり自力ではダメだと言うことなのです。


南無阿弥陀仏のお念仏に出遇った人生は、苦難が苦難のままでは決して終わりません。

その苦悩が苦悩を通して喜びの人生へと転じられていく人生となるのです。

阿弥陀さまは、遠くお浄土の蓮台の上に座っておられる仏さまではなく、常に私の内なる仏としてはたらき続けてくださっているのです。

南無阿弥陀仏との声となって私に宿っていてくださるのです。お念仏を私の生活の中心に据えて、苦しみ悲しみを乗り越えていく人生こそ「輝いて生きる」人生なのです。


私という自分の殻に閉じこもって生きることは決して輝いた人生とはなりません。

何故なら私の中には真実がないからです。

死ぬまで煩悩から離れられない【凡夫】には真実などないのだから。

真実は南無阿弥陀仏のお念仏、阿弥陀さまの智慧にしかありません。それをお聞かせいただくのが仏法聴聞することなのです。


明日ありと 思うこころのあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは


ナンマンダブツ、ナンマンダブツ、ナンマンダブツ

おやすみなさいませ。

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