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浄土真宗のすわり

皆さま、おはようございます。

今日はおかげさまで良い天気が戻ってきました。温かな陽気も春らしいですね。

しかしながら私は気持ちは晴れやかですが、身体はあちこち痛いのであります。

エコーの痛さに耐えましたが、さすがに1回の施術では目立った効果はでませんよね。

気長に治療します。


さて先日、「お彼岸は日頃が良いからお聴聞なさってくださいね」と申したら、「お彼岸だけでいいんですね、楽ですね浄土真宗は。」などと言われてしまいました。そ、それは話が違うんだけど聞かないよりはマシだとは言いましたが、どうして人間って都合の良いように受け取ろうとするのかな。

そもそも浄土真宗は【他力の信心】を阿弥陀さまから賜り、忘れがちな自らのためにお聞きするものであって、他人のためにするものではないのです。


人生、一日一日が常にお聴聞の日です。

【浄土真宗のすわりは平生業成】(へいぜいごうじょう)で、平生からお聴聞に励み、他力信心に生きる人になるのが本当であります。

当てにならない煩悩具足の自分の姿勢を振り返りながら(人間って自分が他人にしたこと、傷つけたことは簡単に忘れられるもの)自らを阿弥陀さまの慈悲の光に照らしながら自らを律して行くことが大切なのです。


有名な詩人、相田みつをさんは、

美しい花を見た

美しい花は美しい枝についている

美しい枝は美しい幹についている

美しい幹は美しい根っこがささえているに

ちがいない

その根っこは見えない

その見えないところに大事な点がある


と詠まれています。

意味深いと感じました。

私たち人間はこの世に生を受けながらも、仏の教えをなかなか求めようとはしません。

人間に生まれたからこそ仏さまのみ教えを聞くチャンスに恵まれたというのに。

そのような生き方をする人は、いわば根のない樹木のようなものだと思います。


立派な幹には、しっかりとした根があります。大地にしっかりと根を張っているから風雪に耐えることができるのです。だから美しい花も咲くのです。その大事な根は外からは全く見えません。しかし見えないところに大事な点があります。私たち人間が生きていくには、しっかりとした根を張る必要があります。

人生の花も、しっかりとした根があればこそ咲くのです。

その根を張るためには間違いのない道を聞いて行く必要があると私は常々思っています。

仏法を聴聞するということは、外見ばかりにとらわれて見えない世界を疎かにしがちな私を知らされ、仏法という地面に、心がしっかりと根を張ってこそ初めて潤いのある人生が開けてきます。欲望や見栄だけに左右されることのない道が開けてきます。


物の興廃は必ず人に由る(よる)

人の昇沈は定めて道に在り(あり)

[弘法大師]

と言われています。

世の中が良くなるのも悪くなるのも人間が由因します。政治が悪い、環境が悪いと好き勝手な理由をつけますが、世の中を動かすのは人間であります。社会を左右するのもやはり人間なのです。日本人は革命を起こさないからわからないのでしょうが、政治を良くしたいのなら、今まで投票には行かなかった有権者が投票所で一票を投じてくれたら必ず政治は変わるきっかけになります。浄土真宗本願寺派の総長が辞任され投票がありましたが、白票がめちゃくちゃ多かった。白票は反対票なのです。これでいいのです。投票率を上げていくためには何にしても一票を投票箱に入れるという作業をしなくてはならないのです。しないのに政治が•••は論外であります。子や孫の未来を考えていくのは親の大人の責任であります。


このように人間とは、かなりええ加減に生きていこうとします。SNSを見たらよくわかります。訴えたら逃げようとする。ならば責任が取れないなら投稿しなきゃいいのに、そこは自分の偏見意見をオブラートに包まずにぶつけている。九州の本職団体の代表が裁判中で死刑判決が無期懲役に減刑されるという司法が報復を恐れたと言わざるを得ない判決が出ました。皆さまはどのように感じましたか。

司法は罪を憎み人を憎まずというものだと思っていたのに••••。ショッキングな判決なのにワイドショーでは相変わらず大谷翔平がホームランを打ったとか、裏金問題ばかり取り上げてる。

メディアも彼らに恐れを成しているのだろうか。改めて考えさせられました。


人生を問い、世間を問うていく場こそが仏法を聴聞していく意味ではないのでしょうか。

そんなことを考えながらブログを書いていたらこんな時間に。洗濯しなくちゃ。


独り者は身体が痛かろうが全部自分でやらなきゃいけないんだもん。やるぞ。

南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

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