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子どもを理解するのは難しい

皆さま、おはようございます。

今朝も爽やかな朝を迎えています。

今日も周りの子どもさん達はお母さんに見送られながら元気に学校へ向かいました。

「行ってらっしゃい」という親の声が子どもたちの支えとなって学校までご一緒くださいますね。きっとアミダさまのように。


さて、私には人間の子供はありません。

私にはお恥ずかしながら豆柴という子どもに恵まれていますので、きっと皆さまの子どもと接する意味合いは違うと思います。

諸先生方のお言葉をお借りしながらご紹介します。


「子どもを理解することは難しい」

我が子が悩みを抱えているとき、親はそのこの気持ちをちゃんと理解することができると思いますか。確かに、親は我が子が生まれた時から見守り続けてきたのですから、他の子よりも子どものことをよく知っています。

どんな性格で、何が好きで何が嫌いかということを一番把握しているのは、やはり親でしょう。しかしそうであっても、悩む子どもの気持ちを本当に理解することは難しいのではないでしょうか。

もし親が、子どもの気持ちを解ったつもりでいると、子どもの複雑な気持ちに気づけず、かえって子どもに寂しい思いをさせることだってあるのです。

同じ屋根の下で暮らしていても、同じ経験をしても、親は親の境涯、子どもは子どもの境涯を生きているのです。どんなに子どものことを思っていたとしても、親が子どもの境涯をかわりにいきてあげることはできないのです。

たとえ親であっても、我が子の気持ちを本当に理解することはできないという自覚は大事だと思います。しかし、だからこそ子どもの声に耳を傾け、気持ちを理解しようとする姿勢が大切ではないでしょうか。(きたじまぶんゆう)


「こども新聞社」『家庭で読める、ほとけさまの言葉』より



昨今は少子化の影響でしょうか、親も子どももあまり必要以上に接する時間が私たちとはだいぶ違うように感じます。だからこそ普段の関わりが大切ではないでしょうか。


以前、お寺へ相談にこられた方のお話ですが、

お母さんと息子さんが訪ねて来られました。

「お寺さん、9歳の息子がどうしても私の言うことを聞いてくれませんが、どうすればいいでしょうか」


住職「私は子どもがいないので、仏教の教えからお話させていただいてもよいでしょうか。」


「私は諸事情で母子家庭ですので、人一倍、子どもにはさまざまなことで言い聞かせるのですが、年々わがままか、反抗ばかりするのです。どうしてでしょうか。」


住職「お母さん、失礼ですがお母さんはお幾つでしょうか。」

[お母さんは露骨に嫌な顔をされる]

住職が見た感じ30前半に見えたのでお聞きしたのですが、どうして女性は年齢を聞くと嫌な顔をするのでしょうかね。


住職「お嫌なら無理にはお聞きしません。」

そういうと、「私は32歳です。」そう言われました。

住職「若いのにご苦労されておられるのですね」と言い、

住職「私なりに理解できました。」

住職「先程言いましたように仏教の教えでお答えしますね。子どもさんに対してお母さんは32歳ではなくて9歳なんですよ。それがわかればきっと素直に聞いてくれると思いますよ。」

と言いました。


「お母さんはけげんな顔をされて、それはどういう意味なのですか。」


住職「お母さんは我が子が生まれてこられて、お母さんと親を知ることで親になりました。子どものおかげで「親」にならせていただいたのですから、お母さんとしては9歳なのです。9歳のお母さんとして息子さんに接してあげたら、素直に理解することがお互いにできると思いますよ。この話は落語にも出てきます。」


不思議そうな表情をされて帰っていかれました。その後はお会いしていませんから、どうなったかはわかりませんが、私にはこれが精一杯です。

これはもしかしたら夫婦も同じかも知れませんね。年の差がある夫婦もあるでしょうから。

私はお恥ずかしながらそれを知る前に離れてしまいましたからね。


やはり仏法をよく聞いて生きていくことは、私たちが生きていくことでは大切だということなのでしょうね。

また子どもについてご紹介したいと思います。


今日もなんまんだぶつをおとなえしながら強く明るく生き抜きましょう。

なむあ

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