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我慢するのだ

皆さま、こんばんは。

今日はいかがお過ごしでしたか。

少しでも悔いなく過ごせたでしょうか。


私は朝から「断捨離」(執着から離れる)、

布教のため出来なかった月報の作成と発送作業、事務、今は車の整備で所沢市まで。

昔から、どんなに人から酷いことをされても、仕返しをしようとかはするな、と言われてきました。なぜなら良いことも、悪いことも必ず巡り巡って自らに返ってくるからだと教えられてきましたから。


過去の因縁が原因で起こった事柄なのだから、無闇に人を傷つけたり、憎んだりしてはならない。これは仏教の教えでもあります。

確かに自分の大事なモノを傷つけられて大変な怒りと悲しみはあります。しかし犯人を探して問い詰めたとしても決してモノは直らないから。

人間とは、他人からされたことは決して忘れないのに、自分がしたことには意外にも無頓着だったりします。しかし【因果応報】は、自分でしたものは必ず自分で始末をつけねばならないという【戒め】なのであります。


どんなに嫌だと思っても、それが私の生きる道。どうにもなりません。ただ【執着】を離れていく他はありません。これが【煩悩具足】の悲しさであります。

しかしながら、どんなにそう思ってもやられたモノは直さねばならないし、直せばお金が掛かるのも必然であります。それを笑い飛ばせる度量は私にはまだありませんね。


たまにこうやって愚かな【愚痴】を吐き出すことしかできないのです。

築地本願寺常例布教で皆さまにお伝えしましたが、【身•口•意】の三業。

確かにこの手をかけて他人を傷つけたり、他人の命を奪ったことはないけれど、言葉(口)ではどうだろうか。心の中(意)ではどうだろうか。

私はお恥ずかしながら、こうやってブログを書いているだけで何人を言葉(口)、心の中(意)で傷つけたり、奪ったりしていないか。憤りを感じずにはいられませんね。


仏法を聞くということは、自分の殻を破るとは言いますが、なかなか大変なことだと思います。聞いても聞いても、それでも聞いてもやはりすぐ忘れてしまい、また悪行を繰り返している。まさに恥ずべき、悲しむべき、愚かな【凡夫】たる我が振る舞いであります。

他人は責め、自分は責められない。

仏さまは内も外も同じように見ていくことができます。しかしながら、私は目が外向きですから、いつも外(他人)のことばかり気になり、あいつが悪い、あれがこう言った、あれしたこれしたと常に大騒ぎであります。


そういう浅ましい生き方しかできない私を哀れみ、大慈悲の親心をもってお気づかせをくださる仏さまを知らされました。親心になかなか気づけず、自分の殻の中にあり続けようとする私であります。そんな私を決して責めずに、そのままに抱いていてくださいます。その大慈悲に耳を傾けていきたいものであります。


親鸞聖人は、ご和讃に、

「南無阿弥陀仏となふれば、十方無量の諸仏は、百重千重囲繞して、よろこびまもりたまふなり」と、お示しくださいます。


ただ、そのまま聞いて、そのままおまかせしていきたいものですね。ナンマンダブツ

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