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他力のお念仏こそ

皆さま、おはようございます。

今朝は少し風が冷たく感じられます。

少しずつ春に向かっているのを草木花が教えてくださっていますね。

超法寺も新たな一歩を歩み始めますよ。

皆さまのお力添えが必要です。

住職のためは二の次ですが、どうか超法寺をこの入間市に残していき、皆さまの憩いの聞法道場にしていきたいと考えています。


さて、皆さまは浄土真宗の法事についてのご理解が先のブログでご紹介しました通りに一般的な考え方とかなり違っていることはお分かりいただけたと思います。

まだ、お分かりいただけていない方は、改めて親鸞聖人のお言葉を通してお味わいしてご確認していただけたらと思います。


七高僧のお一人、源信僧都は、

それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり

道俗貴賎誰か帰せざる者あらんや。

と、末代の時代に帰依すべき信仰は往生極楽の教行(きょうぎょう)念仏にあると力説されています。

※末代(末法)とは、お釈迦さまが入滅(亡くなられて)して二千年が経つことで、「教え」だけが残ってら「修行」する人もなければ、「悟り」を得る人もいなくなる。


親鸞聖人や法然聖人は、「両度の命日」に念仏の法会(ほうえ)をされています。

当時は物品などを追善•追福の供養とするのが、故人への常識的な恭い(うやまい)方でした。 親鸞聖人や法然聖人は、この常識を破って故人を偲ぶ会を【お念仏をよろこぶ】法会としています。 このことは法然聖人が、『選択本願念仏集』(せんじゃく)の中で、 「末法万年の後に余行(よぎょう)ことごとく滅し特(ひと)り念仏を留(とど)む」といい、「弥陀如来、余行をもって往生の本願としたまはず」とも説いていることからも頷くことができます。

【阿弥陀さまの大慈悲心のかたまりである念仏によってのみ、末法の時代に生きる誰もが救われることができる】と法然聖人はお説きくだされたのです。

法然聖人のお心を深く受け止められた親鸞聖人も、生涯を通じて故人を偲ぶことは、阿弥陀さまのお慈悲をよろこび、大慈悲のかたまりのお念仏(南無阿弥陀仏)のおいわれを味わうことだと実践されました。 このように法然聖人のお心をいただかれた親鸞聖人にとっての法事は、【南無阿弥陀仏の法にであう場】でありました。

『歎異抄』第五条を味わいながら、親鸞聖人の故人に接する態度を味わってみましょう。 親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一辺にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々(せせしょうじょう)の父母•兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生(じゅんじしょう)に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道•四生(ししょう)のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通(じんづう)方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。


※一に【父母孝養のために追善•追福のためのお念仏を一度もしたことがない】ことを示し浄土真宗の立場をはっきりさせています。

二には、【お念仏は個人的なものでない】ことを説いています。

『往生要集』に『心地観経』の、

有情は輪廻して六道に生ずること。猶し車輪の始終無きが如し。或いは父母となり、男女となりて、世々生々に互に恩あり。

という文を引いてありますが、仏法の上から言えば、すべての人が世々生々の父母兄弟です。あらをる人間のあり方を包んで、あなた方の死が、今日の私のためになったのであると考えねばならないということが「自力をすてて、いそぎ浄土へまいりて」という意味となるのでしょう。

また『蓮如上人御一代記聞書』一七九条には、「他宗には親のため、またなにのためなんどとて念仏をつかふなり。聖人の御一代には弥陀をたのむが念仏なり」と説いています。

三には、念仏を追善•追福のために用いてはならない理由として、【念仏は他力回向であって、仏さまからいただいた念仏でありますから自分のものとして回向することはならない】ことが説かれています。


以上を踏まえますと、親鸞聖人の故人の法事に対する基本的な姿勢は、【自力をすてて、いそぎ浄土へまいりて】と、念仏すること以上に勝る父母孝養の道はないということですね。


浄土真宗の読経は何のためにするのかと言えば、【父母の恩に感謝し、阿弥陀さまのご恩を感謝する】ということなのです。

決して故人を供養するために読まれているのではないことを知ってください。

なかなか仏法を聞かない私のために故人が縁となって、阿弥陀さまのお慈悲に出遇ってくれ、また遇えるしあわせを知ってくれ、南無阿弥陀仏を私だと思ってことある事に呼んでくれよ、とお聞かせいただくようにしていただきたいと願っておられるのですね。


また、最近では形式的なご法事しか勤めず、百か日やお彼岸、初盆以外のお盆のお参りもされない方が実感として特に首都圏で多くなりました。聞いてもなかなかわからないのに、お参りする機会を失念してどうやって阿弥陀さまのお慈悲を受け止めていくのでしょうか。

人間は【忘却】する生き物です。

特に興味のないものは最優先で忘れるようです。だからこそ、悲しみの深いうちは、亡き人を偲ぶ時には仏法を聴聞し、阿弥陀さまのお心をお経が通して触れておきたいものだと思います。

少なくとも、頭で理解しているうちではなく、身体で仏法を聞くようになり、愚痴の口に南無阿弥陀仏がいただけるような習慣が身につくまでは怠らずにご法事を勤めていただきたいと思います。


南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

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