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仏心の華咲く道

「仏心の華咲く道が、すでにして、この私にも与えられている」[信國淳師]


仏心とは、阿弥陀如来さまの【どのような衆生(いのち)をも必ず救いとる】という大悲のお心です。

それはちょうど、蓮の花が泥沼に咲くように、阿弥陀さまの清らかな心のはたらきが衆生の煩悩の泥の中で花開くということでしょう。

すなわち、煩悩を燃やし続けているこの私が、そのまま如来さまのはたらき場所であり、その私を必ずお浄土へ導いてくださるとの味わいです。


信國淳[のぶくにあつし]師は、この法語の前に次のように述べられています。

「私どもの生きるその生は、たとえ久遠劫来(くおんごうらい)の流転の生にほかならぬとしましても、その流転の生が実にそのまま、弥陀の弘誓の仏地によって支えられた、そして私どもをして、おのずから流転の生を超え出させる、往生の道というものになる。」


これはもう少し解釈しますと、私たちは、遠い昔から煩悩によって迷い、流転し続けているけれども、その流転する生は、実は【如来さまの本願のはたらきの大地によって支えられている】のです。

そのことに気づかされた時、この私の生は、迷い続ける流転の束縛からおのずと離れ、如来さまのお浄土へと向かう大道を歩むことになる、というところでしょうか。


「仏地」については、先ず花と大地についてお話ししましょう。

清々しく綺麗な花は、人々の心を和ませてくれます。こうした花はどれもいきなり咲くのではなく、花びら自体も単独に生きているわけではありません。数多くの条件が揃って初めて花が開くのです。多くの要素がお互いに関わり合って支え合ってこそ成り立つ世界なのです。太陽の光を浴び、暖かい空気に触れ、土からは養分を吸収して育まれます。

また大地にしっかりと根をおろして生きていると言えましょう。


これは私たちにも同じことが言えるのではないでしょうか。私たちのこのいのちは、数数えきれないほどの[恒河沙]恵み、縁によって初めて成り立っているのです。たとえ私が不平不満を持っている状態でありましょうが、自分自身が嫌になってしまおうが、空気は常に我が身を包み込んで体内に酸素を送り届けてくれます。また太陽の光は、適度の気温と明るさを提供して、わがいのちを生かし続けてくださいます。そして大地は、私自身をしっかりと支えてくれています。


この私がきづこうが気づくまいが、もうすでに、ずっと前から安心しきって踏み締めることができる大地が用意されているのですね。


「弥陀の弘誓の仏地」とは、まさにこの大地のように、私自身の煩悩のしわざがどうであれ、確実に私を支え育み、お浄土に生まれさせずにはおれないという如来さまの大悲のはたらきを言うのです。

そこに気づいた信心の表現と言えるでしょう。


また「道」についてですが、道といえば中学生時分に習った高村光太郎の「道程」を思い出します。


僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る


と言う詩です。

人生は茨の道なのかと感じたものです。

自分で道を切り開くなんて、大変だなぁ、と。


「仏心の華咲く道」は、そのときどきに、もたついて立ち止まったり、悲しみ悩んだりしても、大筋においてしっかりと立ち直り、肩肘は張らず、力まず、根底のところで安心できる人生を、自分の足で歩いていく•••そんな心境ではないのでしょうか。


ひとりぼっちなんかじゃないよ。

いつも阿弥陀如来さまが悩み苦しんでいる私をしっかりと抱き止めて、【大丈夫】だよ、とナンマンダブツ、南無阿弥陀仏と喚び続けてくださいます。この声には恒河沙のような数限りない諸仏が喜んで守っていてくださいますから、安心してまかせたらいいんだよ。

ナンマンダブツ、南無阿弥陀仏と声にして称えてみてごらんよ。

聞こえたまんま、すでに阿弥陀さまが私と一緒に私の人生を歩んでいてくれたんだ。

そう思いながら生きてみましょう。


ひとりぼっちだなぁと思う度にナンマンダブツ、ナンマンダブツと声にしていくのです。

そうやって生きてみましょうよ。

あら不思議、心のこの辺りが少しずつ温かく感じてきますよ。

こうなると段々、お守りやお札が気にならなくなる。これを疑心なき身と言えるでしょう。

これこそが他力の道なのです。


こうなれたらもう安心ですよ。

あなたらしい笑顔で「今」を生きてみよう。

きっと誰かをしあわせにできます。

そして私もしあわせになるのです。ナンマンダブツ。

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