皆さま、おはようございます。
今日は都内で桜の開花予想日だそうですが、この寒さで果たして桜は咲くのでしょうか。
自然の力はどうでしょうかね。
我が家の櫻は元気にしておりますよ。
しかしながら桜は咲けばあっという間に散る運命を持ちますから儚いです。
まるで私たちの命のように。
明日ありとおもうこころのあだ桜
夜半に嵐のふかぬものかは
諸行無常の象徴である桜を心待ちする私たち人間がありつつも、我が命の往く先は気にならず。いかがなものでしょうか。
お彼岸が終わりましたが皆さまはこの度は仏法聴聞する機会は持てましたか?
お墓参りだけでしたか?
お墓に亡き人はおいでませんよ。
亡き人は【南無阿弥陀仏】の声を私たちに届け喚び続けておいでくださっていますよ。
南無阿弥陀仏は、「我(阿弥陀)にまかせよ、我が名(南無阿弥陀仏)を称えて浄土に生まれてくれよ、仏になってくれよ」という阿弥陀さまという親のよび声であります。
それなのに親のよび声を聞かないで、私たちのわがままな願いを親に押しつける行為は正しいのでしょうか?親心を知るって難しいのですね。改めて阿弥陀如来のご苦労は私たちが考える比ではないのでしょうね。
南無阿弥陀仏
昨日お参りした時のことです。
お母さまが、「実は娘が結婚したんですよ、だから今回は一人増えたのです。」と言われました。そういえばいつもより一人多いなぁとは思っていたのです。こちらから聞くのはどうかと思ったので教えていただき嬉しかったです。
「お近くなんですか?」と尋ねると、「実は柏市なので少し遠いのですが車で来てくれました。」と教えてくださいました。
「あ、そうですか。私は柏市の豊四季に後輩がいて毎年布教に行っているんですよ。正満寺って知りませんか?」と言いましたら、驚いた反応が。「実は豊四季にいるんですよ」だって。
あらあら柏市も広いのに。不思議なことでした。そんなことがありました。
きっと亡きお父さまもお喜びでしょう。
是非、南無阿弥陀仏を口に称えられるようになりましょうね。そうお話しさせていただきました。私たちがわかるだけの世界ではありません。あらゆる手立てによって仏の世界に私たちを誘っておられるのでしょうか。
南無阿弥陀仏となふれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
喜びまもりたまふなり
亡きお父さまは、諸仏のはたらきとなって常に私を南無阿弥陀仏の声となり私に寄り添っていてくださいます。もちろん我が両親もであります。その声を我が胸にいただきながら今日も生きていきます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏